THE TOWN WHERE YASUJIRO OZU LIVED
PART1 FUKAGAWA,TOKYO
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
映画監督小津安二郎は川のある下町に生まれた。
場所は現在の東京都江東区深川1丁目、時は日露戦争がはじまる1年前の1903年(明治36年)のことである。
深川には橋のある景色が多い。隅田川沿いの公園には、かつて葛飾北斎が「冨獄三十六景」のなかで描いた「深川万年橋下」の記念碑が建ち、万年橋は姿形を変えて現存している。
小津監督は映画の中に、たびたび橋のある景色を登場させている。監督自身は暮らした街と映像の因果について多くを語らないが、少なからず影響を受けたものと思われる。
小津監督が暮らした街を訪ね、原風景との因果に想いをめぐらせた。
深川1丁目の歩道橋のたもとには、小津監督生誕の地を示す記念プレートがある。生家はこの地で海産物や肥料を扱う問屋を営んでいた。現在この界隈は物流センターやマンションが建ち並んでいるが、小津監督が生まれた頃は、浮世絵に見るような江戸の街の風情が残っていたそうだ。
生家の近所には社寺が多く、縁日には祭りもあり、参拝客目あての屋台や門前町が広がり、幼年期の小津監督にとって遊び場には不自由しなかったようだ。
門前仲町の商店街は昔の雰囲気を残しながら現存している。今でも、下町庶民の出入が多くて活気がある。飲食店の看板が連なる細い路地も、小津監督が好んで描いた景色だ。映画の中には、一家の主が仕事と家庭のストレスを双方に持ち込まないため、中間地点の居酒屋で束の間の休息をとる姿がたびたび登場する。
小津監督の生家から松尾芭蕉の旧居跡まで、歩いて10分ほどの距離である。付近の公園には、隅田川を見ながら句作を練る芭蕉を再現した像がある。
深川を拠点に路上をさすらう旅を人生と創作の糧とした芭蕉は、その想いを代表作「おくのほそ道」の序文で「漂泊の思ひやまず」と表現している。
アメリカの小説家ジャック・ケルアック(1922-1969)が1957年発表して、60年代の若者に影響を与えた小説「オン・ザ・ロード」が今年映画化され再び注目されている。
芭蕉は中世の時代から「オン・ザ・ロード」を実践していた。小津監督は同じ深川住人の先達として芭蕉を意識していたと思われるが、映画の中に頻繁に旅人を登場させるのは、芭蕉の影響というよりも、監督自ら旅と路上散策をくり返した経験からであろう。
時代や国境を越えてくり返し描かれる「漂泊」への想いは、人間の根源的な行動を思わせる。
隅田川の深川対岸にある東日本橋地区は江戸時代の中頃、薬剤師が多く住み、七味唐辛子発祥の地となった。大木唐辛子店は、江戸の頃より同地で唐辛子店を続ける唯一の店舖である。
大き目の粒に辛味好きな江戸前風を感じる。パッケージは昔の江戸っ子が七味唐辛子のことを七色(なないろ)と略して呼んでいたことを思い出す。「ちょっと、そこの七色取ってちょうだい」といった具合である。
小津監督が深川から歩いて通っていた東日本橋の料理屋「鳥安」もこの大木唐辛子店から七色唐辛子を仕入れていた。
鳥安は東日本橋の地に、合鴨専門のすき焼き店として1872年(明治5年)に創業する。店内には、東日本橋や深川界隈の江戸古地図が飾られ、水路や橋が多かった往時がしのばれる。小津監督は度々同店を訪れたことを日記に書き残している。
小津映画の楽しみのひとつは和雑貨のデザインで、時にはモダンな見栄えに驚くこともある。小津監督ゆかりの店では、つい調度類に目を走らせてしまう。
鳥安は近年改装して、創業当時の建物は残っていないけれども、客商売の立場として、防火や耐震の安全性を考えるとやむを得ないであろう。それでも、和の調度類に見る古典と現代の融合は見応えがある。
小津映画の食卓に登場する、冷えたビール瓶のしずくを受け止めるハカマと呼ばれるコースターのような器具を、いまだに使っていることも感慨深い。
前菜の続いた後に、メインの合鴨のすき焼が登場する。すき焼きの料理法は創業当時から変えていないそうだ。鉄鍋に鳥皮をころがして油をひき、鳥肉や野菜を炒めるだけで、鉄板焼きに近い料理法である。
明治の頃のすき焼きは、当初はこのような調理法からスタートした。その後、慣れない肉のしつこさを中和するため、割り下を使う流派も登場したけれども、鳥安は創業当時の調理法を守り続けているのだそうだ。何も加えない素材本来の旨味と香ばしい風味は奥深い味わいがある。
鉄鍋表面のくぼみは、鳥肉を炒めているうちにしたたり落ちる余分な油を落とすスペースで、初代が考案したものだそうだ。ここにシイタケなどの生野菜をさっと入れて軽く火をとおしたものも美味しい。
鉄鍋を温める卓上の箱型炭火コンロは、もとは近所の芝居小屋の役者さんなどへの出張サービスのために開発されたものだそうだ。
焼き上がった具材は、熱さと脂っこさを中和するおろし醤油でいただく。
お好みで入れる薬味は、地元の老舗、大木唐辛子店の七色唐辛子である。
ご飯もののメニューには炒飯もある。もとは、鍋底に残った香ばしい油で炒飯を作ったらうまかろう、というお客様の注文ではじめた裏メニューだそうだ。
炒飯は中華の再現ではなく、合鴨肉の細切れとご飯だけを炒めて醤油で味をつける鳥安流だ。
デザートは黒豆プリン。中に甘い黒豆ペーストが入っている。
周辺メニューは時流に合わせてアレンジを加えるけれど、ルーツの合鴨すき焼は、かたくなに伝統を踏襲する姿勢に好感が持てる。調理器具や薬味を含めて、歴史を堪能する楽しみもついた。
すき焼きは冬のメニューのように思われがちだが、あえて夏バテ防止のスタミナ補給に利用した文人墨客も多かったそうだ。
店内には、古今の文人墨客が鳥安のことを書いた本が整然と保管されている。無論、小津監督関連の本も網羅されている。
深川には、江戸や明治の頃からの庶民文化がかすかに残り、小津作品の下町情緒の一部を垣間見た気がした。
小津監督は1963年(昭和38年)の2月、亡き母の一周忌を深川の寺で済ませた後、親族と鳥安を訪れて食事会を開いている。同じ年の12月、癌が悪化して、60歳の誕生日に、母を追うように他界した。