永井荷風の迷宮

KAFU NAGAI’S LABYRINTH

写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

浅草の吾妻橋と隅田川 AZUMA BRIDGE ON THE SUMIDA RIVER

生前の永井荷風を浅草で見かけた人の述懐の中に、労務者のように浅黒い顔で意外だったという感想がある。

小説家は書斎にこもっていると思われがちだが、永井荷風は昼散歩して、夜執筆する毎日を続けていたので、しっかりと日焼けしていた。

永井荷風が好んで散歩に出かけた場所は、隅田川を東に渡った深川、本所、向島といった、かつて山の手の人々が「河向(かわむこう)」とよんでいた下町である。

山の手のエリート官僚の家に育ちながら、親や社会への反抗から文学に深入りし、下町人情話の中に文明批判を盛り込む作風を確立していった。

東京都墨田区 東向島駅付近 HIGASHI-MUKOUJIMA TOWN,TOKYO

東向島はかつて玉ノ井という町名で、戦後、進駐軍によって娼館制度が廃止されるまでは、私娼館街として知られていた。永井荷風の日記や小説によると、戦前の玉ノ井の商店街には、おでん屋がたくさんあったそうだ。

おでん屋といっても、娼館を訪れる客が一息入れたり、時間調整するための立ち飲み屋みたいな店だったと思われる。それでも、地域の雑多な情報が集まる場としての役割があり、おすすめの店など、街角情報を仕入れるの役立ったという。いつの間にか、気軽な飲み屋は無くなり、おでんだけがコンビニで売られている。

永井荷風は銀座や浅草などの繁華街に出かける時はスーツを着ていたが、下町をスーツ姿で歩くと、役人か刑事の査察と思われて警戒されるので、独自のストリート・カジュアルスタイルを考案していた。

アイテムを着こなすテクニックを記した例は、衿取り換え式シャツの衿を付けないでスタンドカラーシャツとして着る、帽子はかぶらず髪に櫛を入れない、ズボンは膝や尻が擦り切れたぐらい着古したものを着る、革靴は履かないで踵が台まで擦り減った古下駄を履く、などである。

このような格好をしていれば、南は砂町から、北は千住、金町あたりまで行っても、誰からも振り返られずに、安心して路地裏や横丁に入って行ける、と記している。論調は今のファッション雑誌と変わりがない。いずれにせよ、下町探索を、海外でも行くかのように楽しんでいたことが感じられる。

玉ノ井には遊郭のような建物はなく、遊女は路地裏の民家の二階の窓から「チョイト、眼鏡の旦那」などと声をかけて客引きをしていたそうだ。

永井荷風は曲がりくねった小路が交差する玉ノ井の路地裏のことを、ラビラント(labyrinth 迷宮)とよんでいた。道に迷わないようにと、日記の見開きページに地図を描き、日々書き足していた。

熱心にラビラントに通った背景は、単なる享楽ではなく、都会人の仮面をかぶったような社交や、忍び寄る軍国主義からのがれ、庶民のやさしさや思いやりを描く、独自の文学の創作にあったと思われる。^風潮に流されず、自分らしさを貫く姿勢には反骨精神が感じられる。

東向島駅前に戻ると、コンビニの隣に突如昔の特急列車が現れる奇観に驚く。よく見ると、駅に併設されている東武博物館の展示品のひとつであった。

永井荷風は東武鉄道や京成電鉄といった、東関東の田園地帯を走る私鉄沿線を好んだ。空襲で麻布の家を焼け出された戦後は、千葉県市川市の京成八幡駅前に晩年の住居をかまえている。

軍国主義が解体され、新しい民主主義の時代が訪れると、永井荷風の人間味のある作風が注目されるようになる。

映画監督小津安二郎が名作「東京物語」の舞台を東武鉄道の東向島駅から近い堀切駅に設定したのは永井荷風の影響と言われている。同じ松竹映画会社で小津監督の後輩にあたる山田洋次監督は、京成電鉄の柴又駅を舞台にした寅さんシリーズを生み出している。

浅草の洋食レストラン「アリゾナ・キッチン」 RESUTAURANT ARIZONA KITCHEN ASAKUSA, TOKYO

永井荷風は晩年、京成八幡の自宅から毎日浅草に通い、レビューショーの舞台小屋などに出入りして、ダンサー達と他愛も無い世間話をして過ごした。街と人の観察を終生の楽しみとして、自由に生きたことがうかがえる。

この頃、頻繁に訪れていたのが、戦後間もなく、浅草の路地裏で開業したアリゾナ・キッチンである。

チキン&レバークレオールとガーリックトースト

永井荷風がアリゾナ・キッチンでほぼ毎回注文していたメニューが、チキン&レバークレオールというスープ料理だ。デミグラスソース味のスープの中に、細かく刻んで炒めたチキンやレバー、タマネギ、エンドウ豆などが入る。

一見普通のスープのようだが、レバー独特の濃厚な苦味と柔らかい食感が現れては消え、不思議な味わいがある。ロールパンのガーリックトーストはやわらかく、バターのイエローと、細かく刻んだ香草のオレンジとグリーンの配色がきれいである。

永井荷風は1959年(昭和34年)の春、病気で歩行が困難になるまで浅草に通い続けた。浅草に姿を見せなくなってから二ヶ月後、自宅を訪れた家政婦によって孤独死が通報された。享年79歳。

今でも浅草で、永井荷風の写真を掲げる飲食店は少なくない。