60年目の東京

TRIP TO “TOKYO STORY”

写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

荒川と堀切橋

小津安二郎監督の『東京物語』に登場する東京は、映画公開から60年の歳月を経た現在、どのような姿になっているのか。素朴な興味から、ゆかりの地をめぐってみた。

1、京成本線荒川橋梁 Arakawa Bridge of Keisei Line Built in 1931, Tokyo

『東京物語』は、広島で隠居する笠智衆と東山千栄子演じる老夫婦が、東京で暮らす子供たちの家を訪ねるが、仕事の多忙から歓待されず、居場所を転々としながら、広島に帰っていく物語である。

老夫婦が最初に訪ねる町医者の長男が住む家は荒川沿いの下町にあり、東山千栄子が「もっとにぎやかなとこかと思うとった」と笠智衆に語る住宅地の最寄り駅は東武伊勢崎線堀切駅の設定で、現在は東京スカイツリー駅から北に五つ目の駅にあたる。

笠智衆がこの家の物干し台で涼む場面の背景には、工場の煙突がたくさん映っている。現在の堀切駅付近に煙突は一本もない。工場はほとんど移転するか廃業して、跡地には高層マンションが建ち並んでいる。

日本家屋がならぶ下町情緒の名残りを期待して堀切駅を降りると、駅前にはラーメン屋が一件あるだけで人影は少なく、ガラスとコンクリートに囲まれた無機質な建物ばかりが目立つ。

門柱の上にいた猫の表情が面白かったのでカメラを向けると、逃げるように路上を転げて背中をかきはじめた。映画のなかの老夫婦のように、期待はずればかりである、

東山千栄子が荒川沿いの土手で孫と遊びながら、「あんたもお父さんのように、お医者さんか?あんたがのう、お医者さんになるこらア、おばあちゃんおるかのう」と語りかける場面の背景に、3つのアーチからなる鉄橋が映っている。1931年(昭和6年)に建てられた京成電鉄の荒川橋梁である。堀切駅周辺で映画と変わらぬ姿でたたずんでいたのは、この鉄橋だけであった。

2、地下鉄銀座駅のマーキュリー像 Mercury Sculpture of Subway Ginza Station Built in 1951, Tokyo

仕事が忙しい長男や長女にかわり、戦死した次男の嫁を演じる原節子が会社を休んで老夫婦を東京見物に連れていき、遊覧バスで丸の内から皇居、銀座へとめぐる。

三人で銀座松屋の屋上から見渡す景色には、埼玉や群馬の山々を背景にした国会議事堂が映る。現在は高層ビルが立ち並び、山どころか国会議事堂すら見えない。

遊覧バスの窓に映る銀座四丁目交差点は、大胆な構図にこだわる小津監督には珍しく、絵ハガキのように広く、わかりやすい視点で撮影されている。

交差点に映るビルの数々は、映画撮影の直前にアメリカ占領軍の接収から解放され、アメリカ軍の看板が外され、再び日本人の持ち物として再生したばかりであった。小津監督はこれを喜び、ニュース映画のように伝えたかったのかもしれない。

遊覧バスから見る鳩居堂前の地下鉄入り口には、モダンなデザインのマーキュリー像が映っている。マーキュリー像は戦後間もない1951年(昭和26年)、東京の地下鉄のシンボルとなる彫刻の制作依頼を受けた笠置季男(1901-1967)が、西洋古代神話の商業神で翼のついた帽子をトレードマークにするマーキュリーを題材にデザインしたものである。

彫刻の表情は、1936年(昭和11年)にナチスドイツ統治下で開催されたベルリン・オリンピックの男子100メートル走で、金銀メダルを独占したアメリカ人選手が疾走する姿をイメージしたとされる。アメリカ占領軍が喜びそうな題材を意識して創作活動していた時代を感じる。

占領軍が去り、東京オリンピックの建築ラッシュが訪れるとマーキュリー像は地下に移築された。子供の頃は大人の理屈を知る由もなかったので、この像はロングヘアの女性を表現したものと思っていた。

小津監督はうなぎ好きで、映画の中にも、度々うなぎ屋を登場させていた。監督のグルメ手帖にはうなぎ屋だけでも三十軒ほど記載されていた。江戸末期に創業した竹葉亭の銀座四丁目店もそのうちのひとつである。『東京物語』にこの店は登場しないが、銀座に行ったついでに小津監督ゆかりの店として立ち寄った。

うな重のふたを開けると、やわらかいうなぎが香ばしくかおる。うすめで辛口のタレと、かために炊いたご飯でいただく味は、江戸前の伝統的な味つけである。うな重は熱々ではなく、少し落ち着いた頃合いで運ばれてくるので旨味が馴染んで食べやすく、もったいないと思いながらも一気にたいらげてしまった。

環境省は2月1日、生態系が不明で近年収穫が減っているニホンウナギを絶滅危惧種に指定したことを公表した。ウナギの値段は高騰する一方だが、お店は満席で、空席待ちの行列も何組か見られた。

3、上野寛永寺旧本坊表門 Front Gate of Honbo in Kanei-ji Temple Built in 17th Century,Tokyo

老夫婦は子供たちの家を泊まり歩いても迷惑になることを感じ、放浪のはてに上野の寛永寺黒門前に座りこみ、「とうとう宿なしになってしもうた」と言って広島に帰ることを決める。

この黒門は今から約400年前の江戸前期に建てられたものである。老夫婦の背景の黒門は荒れ果て、わびしさを強調するものの、ふだんは忘れ去られ、放置されているかのように映っている。

近年、この黒門は数々の天災や戦争を経験しながら奇跡的に生き残った門として再評価され、未来に継承しようと約2年の歳月を費やして大改修がおこなわれ、今年1月に完成した。

見どころは創建当時を完全復刻した黒漆である。これだけの面積を手仕事の工芸で塗り尽くすことを想像すると気が遠くなる。全面が黒く輝く表情は素晴らしく、時空を超えたモダニズムすら感じられ、日本人の感性と仕事の質の高さに驚き、見応えがあった。アニメも良いけれど、これこそクールな日本である。

この黒門のもうひとつの見どころは、1868年(慶応4年)の上野戦争で残された直径10センチほどの砲撃あとである。

明治維新の時、幕府の江戸城無血開城を不満とした親幕派がこの黒門を閉じて上野の山に立てこもり、新政府軍はこれを攻撃する。この時の砲弾のひとつは分厚い門を貫通して穴を開け、それを見た親幕派が降参を決意したとされている。

創建当時を完全復刻するならば、この穴も埋めなければならないが、貴重な歴史遺産として残された。小津監督は笠智衆の背景に、この穴をバランスよく配置して画面に収めていた。

『東京物語』の公開から60年、東京の工業は空洞化し、戦後の面影が忘れられていく反面、日本にしかなく、日本人のルーツが感じられるものが見直されている。