ビートルズと日本の空

THE BEATLES AND JAPANESE SKY

写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

梅雨が明けると、台風シーズンがくる。

1966年(昭和41年)6月27日、ビートルズを乗せた日航機412便は、ドイツのハンブルグ空港を飛び立ち、台風4号が房総半島をかすめた影響で、アラスカのアンカレッジ空港で足止めされ、予定より10時間も遅れた6月29日午前3時40分、羽田空港C滑走路に着陸した。

日本のマスコミはこぞって、「台風の後に、ビートルズ台風がやってきた」と書きたてた。

羽田空港 HANEDA AIRPORT

メンバーは航空会社が用意したハッピを着てタラップを降りると、機体に横付けされたピンク色のキャデラックに乗り込み、宿泊先の東京ヒルトンホテル(現在のザ・キャピタルホテル東急)へ直行した。前後を5台のパトカーが固め、道路を完全に封鎖するなど、厳重な警備が敷かれた。メンバーはこの時、「日本で何かおこっているの?」と思い、自分たちが騒動のもととは思わなかった。

日本武道館 BUDOKAN

ビートルズは5日間の滞在中、武道館で3日間5回の公演をおこない、延べ5万人の観客を動員した。チケットの抽選販売には23万人が応募した。公演のテレビ中継は関東地方で59.8%の視聴率を記録した。

そのビートルズを護衛するために、警視庁は9千万円を投じて特別警備本部を設置した。ビートルズが車でホテルから武道館に向かう道路は完全に封鎖され、沿道には2000人の警官隊が動員され、武道館の周辺には装甲車やジープも配置された。警官隊は5日間の来日中に延べ8370名動員され、その間に補導されたファンの数は6520名におよんだ。

国賓が来日しても、これほどの警備はしないであろう。熱狂したファンと武道館の使用に反対する団体の暴動を防ぐ事は表向きの理由で、60年安保闘争以来、警備面で失態が続く警視庁が、有事に備えた予行演習にビートルズを利用したという説も流れた。

キャピタル東急ホテル THE CAPITAL HOTEL TOKYU

困ったのはビートルズである。警官隊はビートルズが武道館に行く以外は、ホテルの部屋に監禁して、廊下やエレベーターを見張り、一歩も外に出さなかった。日本のプロモート会社が用意した鎌倉観光や日本料理店での歓迎会は中止にさせられ、食事はルームサービスに限られた。

2泊もするとビートルズにストレスがたまってきた。。音楽活動で、いち早くロックにインド音楽を取り入れ、ロンドンでも先駆的な役割をはたしてきたビートルズにとって、新たな東洋エスニックの探究は興味の対象だった。メンバーで年長のジョンは当時25才。好奇心旺盛な時期であり、後の日本文化への傾倒ぶりを考えると、いかに外出したかったかが想像できる。

3日目の朝、ビートルズは日本のプロモート会社社長永島達司と結託して賭けに出た。午前11時、最初に動いたのはポールである。変装して、ロンドンのツアースタッフにまぎれて警備の目をごまかし、エレベーターでロビーに降りた。不眠不休で疲れていた記者団にも気づかれずに回転ドアから表に出て、永島が用意した車に乗り込んだ。

皇居外苑 KOKYO GAIEN NATIONAL GARDEN
皇居外苑 KOKYO GAIEN NATIONAL GARDEN
皇居外苑 KOKYO GAIEN NATIONAL GARDEN

10分後にポールとスタッフを乗せた車が着いたのは皇居前広場である。車を降りたポールとスタッフは敷地を散歩して景色を堪能しつつ、皇居正門の鉄柵前でスタッフの写真に収まった時、警官隊に見つかって保護された。その間わずか5分といわれている。

その頃、ホテルではジョンが同じ手口で警備を突破し、永島が用意したもう一台の車で都内に消えた。

表参道 OMOTESANDO
オリエンタルバザー ORIENTAL BAZAAR

ジョンは原宿のオリエンタル・バザーなど、東洋の骨董品店をめぐり、数点の買い物をした。支払いは、あらかじめ連絡をしておいた永島の会社のツケとされた。ジョンは1時間後にホテルに戻ったが、警察の面目をつぶした永島はビートルズとともにホテルに監禁された。

東京に不案内なジョンとポールが日本人ドライバーに行き先を指示できるはずはなく、あらかじめ永島がすべての行動を手配していた。わずかな脱出の可能性に、ジョンとポールが永島に望んだ行き先は、その国の文化や芸術が感じられる場所であった。

その後ポールは、ホテルでニューアルバムのアセテート試聴盤を聞きながら、窓から見える警備の警官が身につけていた拳銃の回転式弾倉を意味する英語、リボルバーを
アルバムのタイトルにしようと考えたという。このビートルズのニューアルバム「REVOLVER」は日本から帰国後すぐに発売された。

ジョンは来日中の公式インタビューで日本の印象を「私たちはまだ、日本で着物を着た人を見かけていない。日常生活は私たちと全く同じだ。いずれ世界はひとつになるのではないかと思っている」と答えた。

ビートルズは来日日程を終え、7月3日に羽田空港から次の目的地マニラへ飛び立った。翌月のアメリカ公演を最後に、創作活動に専念するとして休止された公演ツアーは、解散するまで復活することはなかった。こうした事情と日本の受け入れ態勢を考えると、来日が実現したことは奇蹟に近いと思われた。

社会現象を巻き起こしたビートルズの来日は、1966年のトップニュースとして日本の世相史に刻まれた。日本人の熱狂が台風だったのかもしれない。