富岡製糸場の煉瓦

写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

日本の伝統では松の内は年神様が家庭に滞在すると考えられ、この間に願い事や抱負をしたためると成就する運が強いとされている。開運期間とはいえ、高すぎる目標を掲げると、最初から手つかずになるか、理想と現実のギャップに悩むことになる。それゆえ、無理難題を可能にする男たちの正月映画が受けるのであろう。

明治の新政府は開国するなり欧米列強に匹敵する近代国家をつくるという理想を掲げ、歴史上稀な急改革を進めた。その目標のひとつが殖産興業で、明治5年(1872年)に群馬県で操業を開始した富岡製糸場はその代表に数えられる。

工場の建設にあたり、理想を現実の形にする現場担当者にとっては苦難の連続だった。設計施工と絹糸量産の技術指導で雇われたフランス人ブリュナは言葉がほとんど通じない中で陣頭指揮にあたる。煉瓦作りのために集められた日本の瓦職人たちは、西洋建築や煉瓦をほとんど見たことが無いにもかかわらず未知の煉瓦作りに挑む。煉瓦の整形には輸入した量産機を使ったが、一週間で破損してしまい、応急処置で作った木型に餅つきのような手作業で粘土を入れながら煉瓦の形をつくる。煉瓦を焼く窯は近隣に数機設けたが、温度が不安定でロットによって色の濃淡が生じた。

ブリュナが工場の現地調査を始めた明治3年(1870年)の頃は、建設スタッフ以外の日本人は外国人忌避の傾向を示していたのも事実だ。全国各地で士族反乱や要人暗殺など、映画「ラストサムライ」に描かれた反政府運動が多発していた。

ブリュナが宿舎でフランスから取り寄せた赤ワインで晩酌をしていたら、ワインを見たことも無い日本人の間で、フランス人は生き血を飲む恐ろしい人種との噂が広まる。ブリュナは身の危険を感じたが、絹糸が不作続きの母国フランスに日本で作った絹糸を輸出するまでは逃げ出すわけにはいかない。そこでブリュナは万一の時に備えて、宿舎の地下に食料貯蔵庫と称して避難所を作った。教えるほうも命がけである。

こうした苦労の末に完成した工場は不揃いで色ムラのある煉瓦のために泥臭い外観だが、良質な絹糸を産出して輸出の振興に貢献した。昭和62年(1987年)に活動を終了してからは、異文化の中で技術指導をしたフランス人と日本の職人たちの勇気と挑戦への気概を示す遺産として、国の重要文化財に指定された。

無理難題を可能にするのは映画の中だけではないと物語る色ムラ煉瓦にあやかり、仕事始めとする。