ジャズ喫茶とウールタイ

COFFEE,JAZZ AND WOOL TIE

文/赤峰幸生 Essay by Yukio Akamine
写真/織田城司 Photo by George Oda

渋谷駅ハチ公口交差点1952年(昭和27年)左下がハチ公像 Front of Shibuya Station in 1952

私は戦後間もなく、渋谷の南平台にある病院で生また。育った実家は渋谷に近い学芸大学駅にあった。

幼い頃は、母親に連れられて、よく渋谷に出かけた。母親はあちこちで用事を済ませると、必ず駅前の西村フルーツパーラーに連れて行ってくれた。二階の窓際席でパフェを食べながら、ハチ公口交差点を行き交う乗り物を飽きずに眺めていた。

当時の渋谷の街は、丘の上にワシントンハイツという広大な米軍専用住宅地があったので、アメリカ人を意識したお店がたくさんあり、洋風のインテリアやモダンな看板の格好良さが印象に残っている。

1950年代の渋谷西村フルーツパーラーや百軒店入り口、ジャズ喫茶スイングのマッチなど

1960年代半ば、高校を卒業すると、渋谷にある桑沢デザイン研究所に入学した。放課後は毎日のように百軒店にあるジャズ喫茶に通っていた。

ジャズ喫茶とは、ジャズのレコードを音質のよいオーディオを使って、生演奏のような大音量で流す喫茶店のことである。当時はレコードやオーディオは高額だったし、狭い住宅事情では大きな音で音楽を聞くことができなかったので、ジャズ喫茶の空気にあこがれた若者は多く、百軒店にはジャズ喫茶がたくさんあった。

なかでも、頻繁に通った店は「スイング」で、マスターも懇意にしてくれた。マスターは街の有名人で、アメリカからジャズプレイヤーが来日すると、必ずこの店に立ち寄った。円山町を一緒に歩いているとヤクザが挨拶してくることもあった。

ある日、マスターから「ネクタイあげるよ」と言われ、グリーンのネクタイをいただいた。特に理由などなく、ただ何となくであった。私の服好きを察して、ふと思いついたのかもしれない。


マスターからもらったグリーンのネクタイはウール100%のバスケット織りで、裏地を簡素にして、表生地がフサ状に露出する軽い仕様のアメリカ製品であった。

当時手持ちの服は少なかったので、舶来ネクタイの仲間入りはうれしくて、頻繁に着用していた。カジュアルな表情のネクタイだったので、スーツには合わせないで、もっぱらジャケットやブルゾンを着る時に合わせていた。

後に、服飾文化の研究をすすめていくうちに、このネクタイのルーツは、英国人がハンティングや釣りの時に合わせるカントリータイであることを知った。

20世紀初頭、英国人はどこへ行く時も、自分たちを象徴するスタイルとしてネクタイを合わせることを欠かさなかった。狩猟など、動きのあるカントリーのシーンを想定して、軽い仕様のネクタイを用意していた。

シャツやスカーフ、ソックスなどの服飾雑貨も、カントリーのシーンを想定して、このネクタイのようなブリティッシュ・グリーンとよばれる配色をそろえていた。

英国のスポーティーなドレスアップスタイルに憧れ、街着に転用しようとしたアメリカ人が再現したのがこのネクタイであろう。

そのようなことがわかりはじめた頃、世の中はラジカセやウォークマン主流の時代となり、ジャズ喫茶ブームは衰退して「スイング」も閉店した。しばらくして、ジャズ喫茶仲間の風の便りでマスターが亡くなったことを知った。

アメリカの雑誌APPAREL・ARTS JULY-AUGUST,1937より

今でも年に何回かは、このネクタイを着こなしに使っている。グリーン系のツイードジャケットと、オックスやツイルといった凹凸感ある素材のグリーンシャツに合わせている。一般的には英国カントリー調に見えるが、その日の気分はマイ・ホームタウン渋谷なのだ。

私はヴィンテージ服のマニアやコレクターではない。古いものを着ることばかりが良いといっているわけでもない。

あくまで執着するのは、場面と着こなしの関係を気分で表現することだ。そのために、ヴィンテージ服から新品まで、持っている服の全てをパレットの絵の具として使い、組み合わせを楽しんでいる。引き出しにしまい込む服などなく、全てが現役なのだ。

このグリーンのウールタイをもらった時は、50年近くも使い続けるとは思いもしなかった。おそらく、あの世のマスターも驚いているにちがいない。

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