小津安二郎の散歩道:大森

Trip To Movie Locations : Omori,Tokyo
写真・エッセイ/織田城司 Photo & Essay by George Oda

映画監督小津安二郎は散歩が好きだった。人々の暮らしを見ながら、創作に生かした。そんな散歩道に昔の面影は少ないけれど、創作の背景を追想すると、面白く見えてくる。

モースと日本人

大森駅東口周辺

昭和が始まって間もない1930年代、東京の大森は行楽地として栄えていた。海沿いには料亭や花街が広がり、山沿いにはホテルや別荘が並んでいた。

その頃、小津監督は隣町の蒲田にあった松竹撮影所に通っていたので、大森にはよく遊びに行った。こうした土地勘は、戦後になって手がけた映画『早春』(1956/昭和31年)のロケ地選びに生かされている。

大森といえば、大森貝塚。アメリカ人博士モースによって、1877(明治10)年に発見された縄文遺跡で、日本史の教科書の最初のページの出てくる。モースと小津監督の接点はないが、日本人の暮らしを記録して、後世に伝えようとした点は共通している。

大森貝塚石碑
大森貝塚復元展示(品川歴史館)

そもそもモースは、貝の研究をするために来日した。東海道線の車窓から眺めた大森の土手に貝塚を発見すると、発掘に着手する。そこから出土した土器に縄文式土器と名づけ、日本人の暮らしの原点を解明した。

大森貝塚石碑と東海道線
大森貝塚発掘再現ジオラマ(大田区郷土博物館)

モースの調査の対象はリアルタイムの日本にもあった。このため、当時の日本人の暮らしを取り巻く生活雑貨を手当たり次第に集めた。それも貴族が使う贅沢な工芸品ではなく、下駄、タワシ、すごろく、線香といった、庶民の日用品ばかりであった。

モースが明治時代に発表した著書『日本人の住まい』(品川歴史館)

モースは縄文土器を見つめるうちに、道具に文様をつけて暮らしを彩る、日本人の感性に興味を持ったのではあるまいか。いわば、庶民のデザイン力であり、それを明治の日用品にも感じたから、後世に伝えようとしたのであろう。当時の日本の印象を、いくつか書き残している。

大森貝塚遺跡公園 縄文土器を見つめるモース博士像

「日本の街の通りをさまよい歩いた第一印象は、いつまでも消え失せぬであろう。商店の並んだ町を歩くことは、それ自身が、楽しみの無限の源泉である。」(モース)

大森駅東口周辺
大森駅西口周辺
大森貝塚遺跡公園 縄文土器を見つめるモース博士像

「日本人の顕著な性質は、自然に対する愛情である。単に自然の形状を楽しむばかりでなく、芸術家の眼で楽しむ。」(モース)

旧東海道・美原通り
大森海岸駅周辺
大森貝塚遺跡公園 縄文土器を見つめるモース博士像

「世界中で日本ほど、子供が親切に扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。赤ん坊時代にはしょっ中、お母さんなり他の人なりの背に乗っている。ニコニコしている所から判断すると、子供たちは朝から晩まで幸福であるらしい。」(モース)

旧東海道・美原通り
大森駅東口周辺

モースが切り取った明治の暮らしから、現代に通じることと、失われたことが見えてくる。それは、未来から見た時、初めて気がつくことを、モースは知っていたのであろう。小津監督がフィルムに収めた昭和の暮らしにも、同じ想いを感じる。

馬込文士の点と線

馬込南台のバス通り

大森貝塚の斜面から広がる馬込の台地は昭和初期、関東大震災で焼け出された文士が多く移り住み、馬込文士村と呼ばれていた。

当時の馬込文士の数は多く、詳しく紹介することは割愛するが、映画と縁がある文士としては、川端康成、山本周五郎、尾崎士郎、宇野千代、石坂洋次郎、広津和郎などの名が挙げられる。

尾崎士郎と宇野千代が夫婦時代に住んだ旧居跡(正面)
尾崎士郎が使った応接間の再現展示(大田区立尾崎士郎記念館)
山本周五郎がよく散歩した萬福寺境内
山本周五郎旧居跡(現きたのこばと公園)

小津監督は馬込文士の家を訪問して交流することは無かった。というのも、当時小津監督と馬込文士は20代後半から30代前半。まだ、駆け出しで、世間に広く知られる存在ではなかった。それでも川端康成の評判は知っていたようだ。

1937(昭和12)年、小津監督は川端康成の小説『雪国』を読んでいる。同年、川端康成は小津監督が手がけた映画『淑女は何を忘れたか』を観て、『報知新聞』に書評を寄せている。その中で小津監督の印象を次のように述べている。

「この喜劇でも、小津安二郎監督は、日本人といふものを、考えているらしく受け取れる。小津氏のこれまでの作品は、日本人と日本の生活に対する一種独特の見方が、いちじるしい特色をなしていた。その寡作も厳密も、日本の名匠のそれである。」(川端康成)

川端康成は小津監督が映画の中で、物語のみならず、日本人を表現しようとしたことを見抜いていた。

川端康成・石坂洋次郎旧居跡(正面)

小津監督は戦後、『早春』試写後の座談会で川端康成と対談している。広津和郎の短編小説『父と娘』は、映画『晩春』(1949/昭和24年作)の原作として使用した。小津監督と馬込文士が大成して、交流が始まったのは世の中が平和になってからである。

ちなみち、馬込が舞台の映画のひとつに、木下恵介監督の『夕やけ雲』(1956/昭和31年作)がある。環七通りとジャーマン通りが交差する三叉路にある、馬込銀座商店街の魚屋一家の物語である。ロケも多く敢行され、環七の電柱には開業したばかりの平和島競艇の張り紙が見られる。当時の馬込を映した貴重な資料である。

環七通り馬込銀座交差点
馬込銀座
ジャーマン通り

岸恵子85歳の夢

映画『早春』のポスターより。岸恵子(左)と池部良(右)。

女優岸恵子は1957(昭和32)年、24歳の時、単身パリに渡り、フランス人と結婚した。結婚式で身元保証人の同席が必要となり、たまたまパリのホテルに泊まっていた川端康成に依頼した。

こうした岸恵子の大胆な性格をいち早く見抜いた小津監督は、前の年に『早春』で起用している。既婚の男性と不倫するOLの役で、大森界隈の連れ込み旅館の窓から海を見渡す場面がある。気まぐれで自由奔放な女性像から戦後の新しい時代感を描こうとした小津監督にとって適役であった。

そんな岸恵子が全国を回るトークショー『夢のあとさき』が開催されたので、8月26日、川口総合文化センターで拝聴した。今年85歳になるが、司会者やゲストを付けず、一人でトークショーを1時間30分こなす力量に感心する。

トークショーのチラシ

2000人収容するホールは、ほぼ満席。客層は日本映画全盛期に青春を過ごした70才以上が大半である。女性客は岸恵子のお洒落を知って、自らも着飾って来場している。華やかなプリントのブラウスがトレンドのようだ。

ファンが見守るなか、ステージに登場した岸恵子のスタイルはシャンパンゴールドのドレス。スパンコールか光沢糸を使っているのか、照明に映えてキラキラ光る。「やはり女優はちがう」と思わせる着こなしで、会場は一瞬にして歓声に包まれた。さらに、そのドレスが53年前に作ったものと紹介されると、驚きのどよめきが起こった。

トークの中で岸恵子は、考える前に行動してしまう自分の性格について「周りからオッチョコチョイと言われるけれど、違います。そそっかしいだけです」と分析する。その原点は戦争体験にあるという。

1945(昭和20)年5月29日、米軍の爆撃が横浜を襲った。当時横浜の高台に住んでいた岸恵子は12歳。母親から「近所の幼い子を助けるから、一人で山下公園に避難するように」と言われ、坂道を駆け下りた。

公園に着くと大人たちから防空壕に入るように言われたが、「ここにいたら死ぬ」と直感して、周りの人が止めるのも聞かず、松の木に登った。結局、防空壕に入った人は爆風と土砂崩れでほとんど亡くなった。それ以来、「今日で子供やめた」と思い、大人の言うことを聞かず、自分の直感を信じるようになったそうだ。

キネマ旬報社の本『女優 岸恵子』

国際派として見る今の日本人の印象は「親殺し、子殺し、何となく殺してみたかった。一体どうなっているんでしょう。結局、家族制度が崩壊しているのでは。私が小さい頃は、学校から帰るといつも母がいた。つながりのない生活って寂しいですよね。いじめられたから自殺する弱さがたまらなく残念。」と語った。

余生については「人生とは、はかないもので、私に残された時間はほんのわずか。それをどのように過ごすかと考えた時に、一番つらいのは、何もやることがないこと。だから私は、自分がたどってきたこと書こうと思う。」とまとめ、会場の拍手を浴びた。

大井町まで歩く

大森駅西口周辺

1935(昭和10)年8月31日、小津監督は日記に「池田忠雄と大森ふらんす屋より ぶらぶら大井町迄歩いて帰る」と書いている。池田忠雄は当時小津映画のシナリオを手がけていた脚本家。ふらんす屋はハイカラなカフェであろうか。

その「ぶらぶら」を追想するため、大森から大井町まで歩いてみた。ルートは小高い尾根道を選んだ。通りの名は「桜新道」から途中で「見晴らし通り」に変わる。かつて、通りから品川の海岸や富士山が見えたことが名称の由来だ。大井町の駅に着くと、「ゼームス坂」を品川方面に下った。

大森駅西口周辺

このルートには、商店街が多い。中には、東京大空襲の戦火をまぬがれ、小津監督も見たであろう、大正時代の銅板建築を使い続ける商店も点在していた。小津監督もモースと同じく、商店街を歩くのが好きだった。商品の陳列、看板のデザインなど、販促活動をめぐる創意工夫は人間味に溢れ、興味が尽きなかった。

ゼームス坂は、明治時代にこの坂に住んだ英国人ゼームスが私財を投じて、坂道の急な勾配をなだらかに改修したことが名称の由来だ。小津安二郎が戦前使っていたペンネーム「ゼームス槇」は、この坂から引用したとされる。語呂からハイカラな印象を受けるが、実際に歩くと、小津好みの庶民的な商店が多く見られた。

川端康成が『早春』を観て「近代的なビルと裏長屋的な住居との対照もうまく生かされている。」と評価した原点を垣間見た気がする。小津監督はこうした新旧文化の混沌とした共存も、日本らしさのひとつと捉えていたのであろう。

大森駅東口周辺。珈琲亭「ルアン」。1971(昭和46)年創業。
珈琲亭「ルアン」外観
珈琲亭「ルアン」。ケーキセットの「黒蜜きなこのロールケーキ」。和の味を洋で仕立てる。
大森駅東口周辺
大森駅東口周辺
大森駅東口周辺
桜新道周辺
見晴らし通り
見晴らし通り
ゼームス坂周辺
ゼームス坂周辺
ゼームス坂周辺
ゼームス坂周辺
ゼームス坂周辺
ゼームス坂周辺
ゼームス坂周辺
ゼームス坂周辺
ゼームス坂周辺

行楽地の面影

大森海岸駅前のホテル街

ところで、『早春』は不倫が題材になっている。それが割に合わないことを警鐘する内容は、未来を予見したかのようだ。池部良演じる、蒲田で暮らす既婚のサラリーマンと、岸恵子演じるOLは大森界隈の連れ込み旅館で一夜を共にする。

そこは、小津監督のことだから上品に描く。街で夕食する男女のシーンから、翌朝旅館で身支度する男女のシーンへと飛ぶ。それでも観客は、男女が一線を越えたことはわかるのだ。今でも大森海岸駅の周辺にホテル街があるのは、当時の名残を感じさせる。

大森海岸駅前のホテル街

大森は明治の末から東京近郊の行楽地として開発が始まった。1891(明治24)年に大森海岸に海水浴場ができ、1901(明治34)年に京急の大森海岸駅が開業すると、海沿いに料亭が林立した。こうした海岸料亭は1935(昭和10)年頃までには、30数件あったという。

料亭に通う芸者の置屋は、大森駅と大森海岸駅の間に建ち並び、最盛期には50数件あり、芸者の数は240名ほどであった。やがて、連れ込み旅館もでき、花街を形成していった。

戦後の復興とともに、町工場と宅地の開発が進むと、海岸料亭や花街は姿を消し、ホテル街を残すのみとなった。街を歩くとマンションの谷間にかつての置屋を想わせる年季の入った日本家屋がわずかに点在していた。

大森海岸駅周辺
大森海岸駅周辺
大森海岸駅周辺。そば処「布垣更科」外観。1963(昭和38)年に芸者の置屋を改装して創業。
そば処「布垣更科」外観
そば処「布垣更科」店内
そば処「布垣更科」。ざる(大盛)。大森特産の海苔を大きく切ってふりかける。そばは強いコシ。ツユは江戸前風の濃いめ。
大森海岸駅周辺。お座敷洋食「入舟」外観。1924(大正13)年創業。
お座敷洋食「入舟」外観
お座敷洋食「入舟」店内
お座敷洋食「入舟」入舟ランチ。左からロールキャベツ、ハム、魚介のクリームコロッケ、白身魚のフライ。ソースとフライの衣はあっさりしているが、中身をどれもコクがあり、ロールキャベツの挽肉はスパイスがきいている。

小津監督は昭和初期、海岸料亭に足繁く通ったことを日記に書いている。主に撮影スタッフと打ち合わせをするために利用した。蒲田の撮影所には、落ち着いて会議をする場所が無かったのであろう。

海岸料亭はどこと決めず、何軒か利用した。そのうちの一軒「小町園」には1935(昭和10)年4月21日に立ち寄っている。この小町園は終戦直後、占領軍兵士のために日本政府が用意した慰安婦接待所の第一号として転用され、一躍有名になった。現在、小町園があった場所は「しながわ水族館」になっている。

しながわ水族館の周辺には池と遊歩道があり、土手には松が植えられている。人工的な松林だが、角度によっては、小津監督が歩いた海岸料亭の散歩道に見えないこともない。大森が行楽地だった頃の面影を今に伝えている。

しながわ水族館
しながわ水族館
しながわ水族館
しながわ水族館
しながわ水族館
しながわ水族館
しながわ水族館
しながわ水族館
しながわ水族館
しながわ水族館