酒場シネトーク: 西浅草

CINEMA TALK BAR : NISHI-ASAKUSA,TOKYO

文/登地勝志 Essay by Katsushi Tochi
写真/織田城司 Photo by George Oda

昨年末に高倉健が亡くなり、様々なメディアで追悼特集が組まれ、東映の任侠映画をたくさん見直しました。

任侠映画というと、先入観から敬遠される方もいますが、渡世人の生き方を描いたものがベースで、寅さんも、ある意味渡世人なのです。

任侠映画の背景として多く登場するのは浅草です。明治の頃から栄えた繁華街には様々な興行があり、渡世人の活躍する場が多かったのでしょう。

どぜう飯田屋 JAPANESE RESTAURANT DOZEUIIDAYA

『昭和残侠伝 人斬り唐獅子』(山下耕作監督1969年・昭和44年作)の中で、高倉健演じる刑務所から出所した渡世人を、池部良演じる兄貴分が、どじょう屋に連れて行って、一杯飲みながら労をねぎらう場面があります。古くからどじょう屋の多かった浅草らしさを感じる場面です。

1902年(明治35年)に創業した「飯田屋」は、昔の浅草の雰囲気を今に伝えるどじょう屋です。

休日の昼食にと注文したどぜう鍋定食は、歯ごたえを楽しむために骨つきを選びました。

どじょうをおかずに、大量のネギをメインにしながら、酒の肴にします。熱燗の菊正宗は樽酒で、檜のいい香りがして、飽きのこない味わいです。

頃合いを見て、定食のご飯と小鉢、お新香、お吸い物を出してもらいます。ご飯は関東風のかため炊きで、しっかりした味と歯ごたえがありました。

午後は休まず、酒飲みに付き合ってくれるお店は少なくなりました。

「飯田屋」の建物は、阪神淡路大震災の後の耐震構造の見直しで建て替え、東日本大震災では被害が無かったそうです。

年季の入った下足場の柱は、永井荷風がよく撫でていた柱で、これだけは建て替えのたびに残してきたそうです。新しいものと古いものを上手く生かしながら、お店の雰囲気を出しています。

任侠映画のブームに火をつけたのは、黒澤明監督の『用心棒』(1961年・昭和36年作)だと思います。一匹狼の浪人が組織と戦う物語は世界中でヒットして、他社がこれに追従します。

私が持っている任侠映画の資料に『任侠寿』という冊子があります。これは、東映が1972年(昭和47年)の正月映画興行の時に、映画館の中でファンのために販売した写真集です。

この中に「東映任侠映画の流れ」という年表があり、それによると、1963年(昭和38年)に公開された東映の任侠映画は年5本でしたが、その後毎年倍増して、1971年(昭和46年)には年30本とピークをむかえます。

これに他社の任侠映画も加わるので、この時代はほとんど毎週のように新作が封切られていたことになります。

やがて、1973年(昭和49年)に激減して、高度成長時代の終わりとともに、ブームは去ります。

任侠映画のストーリーは似た様なもので、実体は斬り合いを見せるものがほとんどでした。いわば現代版のチャンバラで、アクション映画の楽しみ方です。リアリズムというより、お決まりの様式美のようなものがありました。

当時は任侠映画の他にも、スパイ物や戦争物といったアクション映画がたくさん公開されていました。高度成長を支えたお父さんたちのストレス解消には、現実的な内容の映画よりも、頭を空っぽにして観られる、アクション映画が受けたのでしょう。

やがて、1970年代になると、オイルショックをはじめ、あらゆる分野で時代の空気がかわり、映画に求められる内容も変わりました。映画産業自体も衰退していき、浅草の雰囲気も変わりました。

電気館ビル DENKIKAN BUILDING

電気館ビルは電気館という映画館の跡地にできたビルで、現在はマンションやテナントが入居する複合施設になっています。

かつての電気館は、日本で最初にできた映画館です。映画は明治時代に日本に入ってきた当初は、芝居小屋や講堂などに映写機を持ち込んで上映していました。その後、1903年(明治36年)に、浅草六区にあった電気館が、それまでの電気仕掛けの見世物小屋から常設の映画館に商売替えしたことが、日本の映画館発祥の地とされました。

写真は電気館が映画興行をはじめた当時に、建物の前から撮影したもので、遠くには、後の関東大震災で倒壊する浅草十二階とよばれた凌雲閣が見える
1953年(昭和28年)、映画産業がピークだった頃の浅草六区の写真。メインストリートには映画館がならび、右からロキシイ、常盤座、東京倶楽部、電気館、千代田館が見える。ロキシイでは、前年に封切られた黒澤明監督の『生きる』と、その年に封切られた野村芳太郎監督の『次男坊』の2本立てが上映されている。

映画雑誌「キネマ旬報」によると、当時の浅草には映画館が17館あり、全館の客席数の合計は18,135席にのぼります。

やがて、電気館は映画産業の衰退とともに、1976年(昭和51年)に閉館します。跡地を今のビルに建て替えた時に、映画館を再開しませんでした。他の映画館も同じような道のりをたどりました。現在、浅草に映画館はありません。

翁そば JAPANESE RESTAURANT OKINASOBA

メインストリートに昔の面影は残っていませんが、裏通りには、かすかに残っています。1914年(大正3年)に創業した「翁そば」もそんな一軒で、浅草に行くと、よく立ち寄るお店です。

昔はどこの商店街にも、こんなそば屋があったな、と感じる造りです。気取りが無く、値段と量も大衆的ですが、浅草で長年営業しているだけあって、個性があります。

メニューはそばとうどん専門で、ご飯物は置いていません。酒は扱っているけれどツマミは置かず、専門に徹しています。

ほとんどのお客様のお目当てはカレー南蛮そばで、お店の名物になっています。ややグリーンがかった濃厚な汁は、一風変わった雰囲気です。

箸を入れると、平打ちのそばが丼の底までぎっしり詰まっています。このそばが濃厚な汁といい具合にからみます。ライスカレーのそば版といった食べ方で、食べ終わると汁がほとんど残りません。

具は鶏肉と玉ネギのあっさりしたもので、汁のカレー味はインド風ではなく、和の薬草を感じるような独自の香りで、そばと良く合います。他にはない味わいに、専門店ならではの創意工夫が感じられます。

浅草仲見世 小山商店 KOYAMA SHOTEN

もう一軒、浅草に行くと必ずのぞく専門店が、仲見世の「小山商店」です。お店の前では観光土産を売っていますが、本業は時代劇用の小道具で、奥では刀や火縄銃の模造品を扱い、アイテムによっては、カスタムメイドも受注しています。創業は1884年(明治17年)までさかのぼり、芝居小屋がたくさんあった時代をしのばせます。

店の脇のウインドウに飾られている無数の刀は、かつて様々な武家で使われていたモデルを再現したもので圧巻です。

刀の柄(つか)や鍔(つば)には、家紋のように、その家代々の意匠があり、日本人の美意識や繊細な手仕事の歴史が凝縮しています。任侠映画の殺陣を見て興奮するのは、日本人の血がさわぐからかもしれません。

私はかつてこのお店で、任侠映画の鶴田浩二に憧れて、刀をカスタムメイドしたことがあります。

高倉健は背が高いので、長い刀を使ったダイナミックな殺陣がよく似合いましたが、鶴田浩二の短いドスを巧みに使った立ち回りも渋くて恰好よかったです。

鶴田浩二は映画によって、ドスと呼ばれる短刀から、脇差しとよばれる長めの懐刀まで使い分けていました。

私が別注した刀は、少し手持ち感がある脇差しのモデルです。刀の刃の形状は、鶴田浩二がよく使っていた、刃文がつかないシンプルなタイプをオーダーしました。

出来上がった脇差しは、モデルガンと同じで外で使うことはなく、家の中で、たまに磨いては、映画のことを思い出しています。

任侠映画のヒーローに見返りはありません。義理人情を果たすために仇討ちに行って、討ち死にするか、生還しても刑務所に戻るだけです。

私にとって、架空の世界だからこそ、ロマンを感じるのでしょう。そんな任侠映画を夢中で観ていた、高度成長時代の青春が、懐かしく感じられます。