鹿鳴館の椅子

CHAIR OF ROKUMEIKAN IN 1883

写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

明治のはじめ、ヨーロッパ先進国を視察した井上薫は、日本の外交のためには迎賓館が必要と鹿鳴館を建てた。1883年(明治16年)に国内外の貴賓を招いて舞踏会を開いた。

大半の日本人は初めて接する西洋文化に戸惑い、にわか仕立ての洋装は外国人から滑稽と評された。外交の成果が上がらない井上薫は4年後に失脚した。ほどなく、鹿鳴館は民間に払い下げられた。

初めて洋装に袖を通した日本人が仮装行列に見えたのはやむを得ない。ところが、同じ鹿鳴館のために日本人がつくった洋式椅子は、単なる西洋の模倣ではなかった。

男性用の長椅子は遠くから見ると洋風だが、近くで見ると和風の装飾に気がつく。日本の職人たちは外国人に日本を感じてもらおうと竹の意匠を取り入れた。本物の竹では意図した曲線がつくれなかったので、木製の丸太を彫って竹そっくりの棒をつくり、湾曲させて支柱とした。竹の節まで精密に再現した支柱は本物の竹のようで、大きくうねる曲線は力強さと緊張感がある。明治の職人たちの想いは120年以上経った今でも型くずれしていない。

肘かけのない椅子は、大きなスカートの夜会服を着た女性のためにつくられた。女性らしさを表現するために、黒地に金の桜模様が左右非対称の構図で優雅に舞う様を、日本古来の蒔絵の技法で描いた。椅子の前足には猫足の彫刻も施された。ライオンなど見たこともない日本の職人たちは、西洋の大きな猫足を模倣することなく、自分たちが見慣れた日本の猫の小さな足で飾った。

日本の無名の職人たちは、西洋の椅子を分析して和の独創を加え、培った職人技を男性らしさと女性らしさで使いわけ、外国人の度肝を抜く工芸品に仕立てあげた。

小さな文明開化の音は響きはじめた。

鹿鳴館に集う人々の宿泊施設として建てられた帝国ホテルの脇に、鹿鳴館跡の小さな石碑がある。

石碑には「鹿鳴館跡 ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であってその黒門は戦前まで国宝であったその中に明治十六年鹿鳴館が建てられいわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった 千代田区」と刻まれている。

旧薩摩藩屋敷の黒門は、鹿鳴館の入り口にも生かされていた。民間に払い下げられた鹿鳴館は世界大戦を前に、敷地の無駄使いとして解体された。黒門は国宝として残されたが、東京大空襲で焼失した。

今日、明治の日本人が和と洋の融合で創造する独自の文化を世界に発信しようとした気概が見直されている。東京駅や三菱一号館など、往時の建物を復刻して未来へ継承する事業も始動した。

ふたたび、小さな文明開化の音が響きはじめている。