名画周遊:半田

TRIP TO MOVIE LOCATIONS
HANDA,AICHI PREFECTURE

写真・文:織田城司 Photo & Essay by George Oda

食べ物に味があるように、絵にも味がある。

味には作者の人間性がにじみ出ていて面白い。

黒澤明監督はリアルでダイナミックな味を好み、ロケ地やセットに凝っていた。

そんな黒澤監督のデビュー作『姿三四郎』(1943年・昭和18年作)のロケ地が愛知県にあるというので興味がわき、新幹線で名古屋に向かった。

スパゲッティ&CAFE フラワー Spaghetti & Cafe Flower 

黒澤監督がロケに使った場所は愛知県の南端、知多半島にある。名古屋から在来線に乗り換える合間を利用して、駅前の喫茶店「フラワー」に立ち寄った。

昼時分は地元のサラリーマンや出張族で満席となる。お目当ては名物「あんかけスパゲティ」だ。「あんかけスパゲティ」は油で軽く炒めた太いスパゲティーに、大粒に砕いた黒胡椒が浮く赤褐色のピリ辛ソースをからめて食べる。

イタリアのスパゲティーのように、ソースの種類でメニューを組むのではなく、日本のカレーライスのように、ソースを一種類にして具の種類でメニューを組んでいる。

スパゲティーの減り方とソースの残量のバランスを意識しながら食べる所作もカレーライスに似ている。

スパゲティーの茹で方は、イタリアのように芯を残さず、柔らかさの中に歯ごたえが残る程度にとどめている。

和製スパゲティ専門の喫茶店だが、中途半端にナポリタンやミートソースを置かず、あんかけソース一本に絞って勝負してることに芯の強さを感じる。

半田運河周辺 Handa River 

知多半島の中で、黒澤監督がロケに使った場所は、海に近い半田運河沿いにある。この界隈は江戸の頃より海運の利を生かして味噌や醤油、酒、酢などの醸造業が栄えた。今でも当時の面影を残す黒板囲いの醸造蔵が建ち並んでいる。

蔵の黒板は潮風や雑菌を防ぐためにコールタールを塗ったのが由来だそうだ。黒光りする蔵は近くで見ると、経年変化でゆがみ、塗りが剥げて木目が浮かび、いかにも黒澤監督が好きそうな、重厚で荒々しい表情だ。

『姿三四郎』の中で、大河内伝次郎演じる柔術家は夜の川沿いで闇討ちを受けるが、賊を一人残らず川に投げ込んでしまう。その様子を見ていた藤田進演じる姿三四郎は、その場で大河内伝次郎に弟子入りを申し出る。

この場面のロケに半田運河と黒板囲いの蔵が使われた。藤田進が決闘を見守る背景には、巨大なミツカン酢のマークが映っている。

この物語は明治時代の柔道創成期を題材にしている。闇打ちの場面は、今の東京都江東区あたりの下町を想定して描かれた。

当時の東京の下町には、黒板囲いの蔵や工場が建ち並び、全国から水運で集まる物資をさばいていた。

黒澤監督が映画を撮った1943年(昭和18年)頃、東京の蔵はレンガやコンクリートに変わっていたので、昔ながらの黒板囲いの蔵が残る場所を探して愛知県まで足をのばしたのであろう。

黒澤監督は1910年(明治43年)に東京の大井町で生まれた。黒澤監督が幼かった頃は、大井町や品川界隈の川沿いにも、黒板囲いの蔵が残っていたものと思われる。

幼い頃に見た黒光りする蔵の印象が、ロケ地にこだわった背景かもしれない。

ミツカン酢は江戸末期の1804年に半田運河沿いで創業した。当時、船で行商に行った江戸の街角では現在の握り寿司の元祖となる「早ずし」の屋台が流行していた。

この時、良質な酢を安定供給することで信頼を得たミツカン酢は、握り寿司が日本全国から世界へ広がる過程で発展してきた。今でも本拠地を半田に置きながら酢の文化を発信している。

寿司 豊場屋本店

酢の蔵を見ているうちに寿司が食べたくなったので、半田運河に近い「豊場屋本店」に立ち寄った。知多半島の名産のひとつとされる穴子を握ったランチタイムメニューを注文する。

穴子は甘辛く煮た後に軽くあぶられ、ふっくら感と香ばしさがある。余分な脂分を落としたあっさり目の味つけは、8貫食べるのに丁度よい加減だ。

新美南吉の生家 Birthplace of Nankichi Niimi 

JR半田駅

『ごん狐』で有名は童話作家、新美南吉(1913〜1943)は半田運河がある半田市で生まれた。大正初期の生家が公開されているので、街道を散策しながら立ち寄ることにした。

明治時代の鉄道開通ラッシュで、愛知県でも半田運河のそばまで鉄道がのびた。明治43年(1910年)に建てられた半田駅の路線橋は今も使われていて、現存する日本最古の路線橋になるそうだ。

駅前と街道沿いには、醸造所に集まる人々のために発達した料亭や商店などが広がる。

新見南吉の生家

新美南吉の生家は、かつての田舎道の面影が残る細くて曲がりくねった道沿いにある。右の部屋は父親が畳屋として使い、左の部屋は母親が下駄屋として使っていた。幼い頃の南吉は縁側に座って往来の人通りを眺めるのが好きだったという。

斜面に建つ家の地階には、土間と小さな茶の間がある。土間には井戸と流し、かまど、物置を兼ねた風呂場がある。便所は外の吹きさらしであった。

必要最低限の設備による質素な暮らしである。家の近くには水田と小さな山が広がる。特に、絶景や奇観があるわけではない。それゆえ、想像力が豊かになったのかもしれない。

黒澤明や新美南吉の心象風景にあるのは、かつて日本のどこにでもあった風景なのであろう。