名画周遊:吉原大門

TRIP TO MOVIE LOCATIONS
YOSHIWARA OMON,TOKYO

写真・文/織田城司 Photo Essay by George Oda

浅草ハレテラス(旧浅草松屋屋上)から日本橋方面をのぞむ

戦後間もない頃の見晴らし台といえば、デパートの屋上だった。

溝口健二監督の遺作『赤線地帯』(1956年・昭和31年)は、浅草松屋の屋上から浅草の街を見渡す場面からはじまる。カメラは最初、日本橋の方角を映し、ゆっくりと右にふりながら仲見世を映し、浅草寺でピタリと止まる。その彼方は、かつて日本最大の遊郭があった吉原の方角にあたる。

浅草ハレテラスから浅草寺をのぞむ

今はデパートと同じ高さのビルが増え、仲見世や浅草寺はすっかり埋もれ、見晴らし台といえば、スカイツリーほどの高さが必要になった。

そもそも、吉原は江戸時代に幕府公認の遊郭街として、日本橋の人形町界隈で開業したが、周辺の市街化が進んで人通りが多くなり、人目を忍ぶべき施設が目立ってきたので、人通りの少なかった浅草の裏手にある水田地帯を埋め立てて移転した。日本橋から浅草へ移動するカメラワークは、新旧吉原の変遷を表現している。

『赤線地帯』は江戸時代以来の公娼制度が、1958年(昭和33年)の売春防止法施行とともに廃止になることを目前に、娼館に出入りする人々の戸惑いと悲哀を描いている。

沢村貞子演じる娼館の女将は、巡回に来た警察官に「この店は私で4代。吉原は300年の歴史があります。本当にいらない商売が、300年も続きますかね」と嫌味を言う。

若尾文子演じる若い娼婦は、父親が会社の疑惑事件の犯人として小菅の刑務所に収監され、保釈金20万円のためにこの仕事を始めたと言い「みんな、お金のためじゃないか」と捨て台詞をはく。

吉原大門  YOSHIWARA OMON

現在、吉原遊郭があった場所で、かつての面影を残すものは少ない。大門とよばれた、絢爛豪華な正門の跡地には、簡素な柱が建つのみである。

遊郭のイメージを利用して営業している特殊浴場は年々減少傾向にあり、小路を歩く客は少なく、黒服のドアマンばかりが目立っている。

吉原弁財天  YOSHIWARA BENZAITEN 

かつて吉原遊郭の敷地内で、大門から一番遠い反対側にあった池と弁財天は、池の面積を縮小しながら現存している。

花吉原名残碑

敷地内にある「花吉原名残碑」は、吉原遊郭の歴史と芸術文化に影響を与えたことを記した石碑で、有志によって建てられた。

芸術文化とは、遊女の作法や演芸、遊女が身に着ける服飾雑貨の工芸、遊郭の建築装飾技術、これらを題材にした文学や浮世絵であろうか。

碑文は俳人で古川柳研究家でもあった山路閑古(1900~1977)が手がけた。閑古が著書『古川柳』の中で紹介している江戸時代の川柳に、

「猪牙(ちょき)の文 へんほんとして 読んで行き」

という句がある。

これは、遊女から来店を促す手紙をもらった馴染みの客が、猪の牙のように先が尖った船に乗って、さっそうと吉原に向かう様子を描いている。

「へんほん」とは風になびくことで、疾走する船の上で、読み返す手紙がはためく様子と、語呂のリズムによるスピード感が、男の高揚感を表現している。

電子メール全盛の現在でも、根強く残るアナログ販促の元祖を垣間見るようだ。

敷地内には遊女の哀史を伝える資料も展示されている。遊女は貧しい家の金策のために人身売買されてきた者が多かった。

遊郭は遊女が逃亡しないように、刑務所のような構造で、避難路は限られていたので、災害時は多数の死者を出していた。

特に関東大震災の大火では、逃げ惑う遊女が次々に池に飛び込んで溺死して、その数は約500人といわれている。このため、池のそばには、鎮魂のための観音像が建てられた。

浄閑寺 JOKAN-JI TEMPLE

遊郭の中で暮らす遊女は戸籍から外されていたので、親の借金を完済するまで帰る場所は無く、亡くなると近所の浄閑寺に無縁仏として葬られた。その数は約2万人にのぼるといわれている。総霊塔の石仏の下には、口紅やマニュキアが供えられていた。

『吉原炎上』(五社英雄監督1987年・昭和62年作)は、明治末期の吉原遊郭を背景に人間模様を描く作品で、実際にあった大火を題材にしている。

遊女の怨念も炎上しているかのようで、藤真利子演じる遊女は、遊女の一生を「生まれては苦界、死しては浄閑寺の無縁仏」と語る。

小夜衣供養地蔵尊

山門の入り口に立つ小夜衣供養地蔵尊の由来は定かでないが、遊女のたたりを供養するもので、悪い部分を撫でると良くなる、という言い伝えが広まり、長年多くの人々が撫でたため、顔や手が擦り減っている。

永井荷風は若い頃から遊郭に通い、遊女の持つ人情や悲しみを題材にした小説を多数手がけ、自分が死んだら浄閑寺で遊女の無縁仏と一緒に葬ってほしい、という遺言を残した。

最後まで荷風らしい変わった発想だったが、親族から却下されたのか、雑司ヶ谷霊園にある父の墓域で眠っている。このため、有志が浄閑寺に荷風の筆塚を建て、遺志を継いだ。

永井荷風の筆塚

お歯黒どぶ跡 OHAGURODOBU

遊郭の敷地のまわりには、遊女の逃亡を防ぐため堀がめぐらされていた。堀は遊女がお歯黒を染める汁をすて、黒く濁っていたことから「お歯黒どぶ」と呼ばれていた。堀は現在埋め立てられ、公道になっているので、歩いて雰囲気をしのぶことができる。

竜泉 RYUSEN TOWN

吉原遊郭の裏口付近に広がる竜泉の町は、遊郭に出入りする人たちの飲食店や雑貨屋が集まって栄えた。

樋口一葉は21歳(1893年・明治26年)の頃、竜泉の町で暮らし、長屋の軒先で雑貨や駄菓子を扱う小売店を営業していた。

この時の経験をもとに書いた、竜泉の青春物語『たけくらべ』は代表作になり、1955年(昭和30年)、五所平之助監督によって映画化された。

主人公の少女は、当時18歳のアイドルだった美空ひばりが演じた。少女は遊郭に出入りして、岸恵子演じる姉の遊女からお小遣いをもらい、竜泉の町で遊びまわっていた。

やがて、少女も遊郭に売られることが決まると、無邪気な表情は消えていった。悲しい運命の一部始終を、山田五十鈴演じる初老の元遊女が見守る。

少女は遊郭に引き渡される日、幼馴染の少年からもらった花束をお歯黒どぶに捨て、純愛の世界と決別する。

今でも竜泉の町には、商店やアパートが多く、一葉が暮らした頃の面影を残している。

一葉記念館 ICHIYO MEMORIAL HALL

『たけくらべ』の舞台になった竜泉の町には、一葉の記念館があり、生涯や創作に関する資料が展示されている。記念館の近所には、『たけくらべ』に登場する風物が今でも残る。

物語の中で少年が家の内職を手伝って庭で作る装飾品は、鷲(おおとり)神社の縁起物、熊手飾りに使う部品である。

鷲神社

町内の夏祭りは、少年少女にとって、意中の相手と一緒に楽しめるのか、気をもむ行事である。一葉は『たけくらべ』の中で、そんな思春期の繊細な心を描いた。

それまでの小説に無かった新鮮な視点は、当時の文壇から絶賛され、将来が期待された矢先、一葉は結核に冒され、24歳の若さで生涯を閉じた。

現在、町内の夏祭りは、一葉記念館の前で、5月に開催されている。

土手の伊勢谷 ISEYA TEMPURA 

吉原大門交差点前にある、老舗天麩羅屋「土手の伊勢屋」のたたずまいは、日本髪の女性が闊歩した時代の面影を残している。

昭和初期に建て替えた店舗は、東京大空襲で焼け残り、年季の入った表情は、遊郭に出入りした人たちの喜怒哀楽が、天ぷら油とともにしみ込んでいるかのようだ。

天ぷら気分を盛り上げるため、店内随所に装飾されたエビの意匠は、昔の日本人のセンスの良さを感じる。

遊郭や特殊浴場が衰退しても、歴史をめぐる散策ブームが追い風になり、行列が絶えない繁盛ぶりである。

店内の熟年女性グループは、ビールを飲んで天丼を待ちながら、「お歯黒どぶ行ってみようよ」と語らい、界隈をテーマパークのように楽しんでいる。

お店のおすすめの天丼は、アナゴ一匹、エビ一匹、イカのかき揚げなど、魚介類で押しまくり、野菜はシシトウ一発のみ。

ご飯の底までたっぷりしみ込んだタレは、甘さ控えめで、見た目よりもあっさりしていて、ボリュームがありながら、もたれは少ない。豪快な辛口は、江戸前の粋を今に伝えている。

伊勢屋の創業は明治22年(1889年)までさかのぼり、一葉がこの地で暮らした頃からある。一葉もこの天丼を食べたのかな、と想わせる雰囲気が、味わいを深めている。

お勘定する時、財布の中の一葉の姿を見て安堵する。苦労しても、前向きに生きる明治女を描いた一葉は、財布の中でも、心強い存在だ。