知りすぎた男〔1〕

編集・文/赤峰幸生 Edit by Yukio Akamine

私が横浜信濃屋の白井氏と出会って約40年近くになります。彼は私の学校の先輩でもあり、私が28歳で独立し㈲トラッドでWAY-OUTブランドを立ち上げた時が最初でした。

それから幾つもの仕事でお世話になり、ご一緒にSHINANOYA ORIGINALの様な様々なアイテムを作り出した。

昨年夏、白井さんにインタビューさせていただき、横浜信濃屋の生い立ちから輸入洋品のルーツについてお尋ねし、快く引き受けてくださり膨大なコメントをいただいた一部をご紹介したい。

何分にも長文なので、何回かに分けて載せさせて頂きます。
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横浜信濃屋の歴史について〔1〕

1866年(慶応2年)横浜市中区弁天通りにて唐物屋(洋品雑貨店)として開業。
初代社長吉澤長次郎の生国(信州松本)をとって‘信濃屋’を屋号とする。
開港場横浜が1859年(安政6年)5月に完成、その7年後の事である。

1868年9月8日慶応を‘明治’と改元。
1869年3月28日明治天皇江戸城に入る。東京が首都となる。この年、横浜に日本最初の鉄橋(吉田橋)が作られる。
1870年12月8日、横浜毎日(現毎日新聞)が創刊。この年、靴の国産が開始された。
1872年9月12日横浜→新橋間の鉄道が開業(陸蒸気:“おかじょうき”と呼ばれた)。9月29日馬車道などにガス燈が点燈された。11月には日本政府が正式に洋装を礼服にした。

「当時珍しい洋品類は日本では先ず信濃屋に入ると言われ、横浜の貿易商や東京の
モダンボーイ達が陸蒸気に乗って洋品を求めに来たという。また海外に赴く大使や領事など、当時のセレブ達は2頭立ての馬車で買いに来たものだと伝えられている」

1895年(明治28年)頃、2代目社長、吉澤長一郎になるが、長一郎は病弱の為、社長業を続ける事が不可能。3代目社長に譲る。
1898年(明治31年)吉澤房次郎3代目社長となる。
1912年(明治45年)7月30日明治天皇崩御。大正となる。
1923年(大正12年)9月1日関東大震災が起こる。
1926年(大正15年)12月25日大正天皇崩御。昭和と改元される。
1927年(昭和2年) 3代目社長に見込まれて望月文蔵4代目社長となる。
文蔵は山梨の出身。昭和初期から戦前にかけての信濃屋の商品は全部直輸入で紳士物が全体を占めていたといわれる。