男服の記憶 第2話 母が見立てた半ズボン

MEMORIES OF MEN’S WEAR No.2
MY MOTHER ALWAYS CHOSE MY SHORT PANTS

エッセイ/赤峰幸生 Essay by Yukio Akamine

写真/織田城司 Photo by George Oda

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子供の頃、母は私の半ズボンの見立てに持論があったらしく、着丈はこれ以上長くても短くても野暮に見えるということを、しきりにまくしたてていました。

私の母は明治末期、日本橋の竹屋の娘として生まれました。竹屋は柳橋と浜町という、かつて花柳界があった二つの土地の間で、両国橋西詰に近い日本橋中学校の向かい側にあり、近所には薬研堀不動尊や繊維製品の問屋街がありました。

その頃の下町には、水運のための堀がたくさんあって、それらが行き着く先の隅田川のことを、住民は大川(おおかわ)と呼んでいました。

When I was a child, my mother claimed so often about my clothes, especially for my short pants’ length, she had her own theory.

She was born as a daughter of a merchant of bamboo in Nihonbashi in the end of Menji Period. Her parents’ home was located between Yanagibashi and Hamacho, both was famous as a Geisha district, and near Nihonbashi Junior High School and Yagenbori Fudoson.

There used be a lot of moats for the ships come and go, and the local people call the end of the moats, Ohkawa (Sumida River).

バージョン 2
薬研堀不動尊 Yagenbori Fudoson
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日本橋中学校(右)と向かい側の一角 Nihonbashi Junior High School

当時、東京一の繁華街だった浅草は、下町っ子の拠り所になっていました。毎月のように行事があり、映画館や芝居小屋の演目は毎週変わり、いつも人々で賑わっていました。

母も幼い頃から浅草に通ううちに、大勢の人が行き交う空気の中から、旬や粋を肌で感じるようになりました。友達と仲見世を歩きながら、浴衣姿で闊歩する男を振り返って、着こなしの評価をささやきあううちに、自然と着丈を意識する目も培われたのでしょう。

私も街角のカフェに座って、人の流れを見ながら考え事をするのが好きで、その点は母に似たのかもしれません。

In those days, Asakusa was the most busy town in Tokyo, and there were many movie theaters and playhouses. My mother also loved walking in Nakmise Street with her friends and talked about the people’s wear. As such, her aesthetic sense was cultivated and I think her sense of beauty is inherited by me whenever I sit down at the café of the street corner and think about something while watching the people on the street.

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母の実家は旗本、いわば徳川の家臣の家系で、竹は道楽で集めていました。明治維新で武家が解体になると、一家は竹屋を正業として生計を立てるようになりました。

当時、竹の主な納品先は隅田川沿いにあった紡績工場でした。紡績工場では、反物を束ねて運送する時の梱包資材として竹を使っていたのです。ある日、母の一家は、安価で竹を供給する競合店が現れると、紡績工場の大口注文を失い、私の祖父にあたる母の父は、竹屋の廃業を余儀なくされたのです。

やがて、母の一家は1919年(大正8年)、日本橋から隅田川を渡って錦糸町に引っ越します。日本橋の土地を売った資金を元手に家を建て、軒下で地元の庶民向けに下着類を販売する商店を開業しました。

私の叔父にあたる母の兄は、引っ越しの当日、一家が家財道具を積んだ馬車とともに両国橋を渡るとき、幼かった母が「いつ、日本橋に帰るの?」と、しきりに尋ねたので「聞こえないふりをした」と、回想しています。

In 1919, after Mother’s father closed the business of bamboo, they moved to Kinshicho across the Sumida River from Nihonbashi and they opened a small retail shop of underwear there.

My uncle (Mother’s elder brother) used to say that she asked him “When can we back to Nihonbashi?” so many times when they were crossing Ryogoku Bridge. He also said that he was too sad to answer his little sister’s question because they loved to live in Nohonbashi..

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両国橋の上から日本橋方向を見る Ryogoku Bridge
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錦糸町界隈 Kinshicho Town
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錦糸町界隈 Kinshicho Town
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錦糸町界隈 Kinshicho Town

母の一家が引っ越した先の錦糸町界隈は、今でこそ、東京スカイツリーのお膝元として都心の一等地になっていますが、当時は町工場が多く、出稼ぎの労働者やアジア諸国の外国人が、狭い路地の長屋に溢れていました。日本橋界隈の人たちが「川向こう」と呼んだ場末にあたり、叔父は没落士族の悲哀を感じたそうです。

叔父はこの環境から抜け出すため、図書館で本をたくさん読んで勉学に励みました。叔父は当時のことを「何でもよいから学問と縁のある人間になりたい、それだけでした」と回想しています。

Today the Kinshicho area becomes the excellent location of the downtown area because of Tokyo Sky Tree. However, in 1920’s, this area was filled with the workers and foreigners of Asian countries who worked in small factories in town. My uncle felt the misery of a fallen descendant of a Samurai whenever he heard the people of Nihonbashi called Kinshicho “Kawamukou (the other side of the Sumida River)”

To get away from this environment, he read a lot of books in a library and studied so hard to become a sociologist after graduating from the University of Tokyo.

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錦糸町界隈 Kinshicho Town
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錦糸町界隈 Kinshicho Town

叔父は東京大学を卒業した後、社会学者として活躍し、自身の清水幾太郎の名を著作とした、評論や新聞の論説、海外文献の翻訳、文章のノウハウ本などを多数出版しながら、学習院大学の教授を務めました。

叔父の論調の根底には、下町の庶民目線があり、1960年の安保闘争では、学生たちを国会前のデモへと煽動しました。

To get away from this environment, he read a lot of books in a library and studied so hard to become a sociologist after graduating from the University of Tokyo.

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叔父、清水幾太郎の写真を表紙にした本 My Uncle,Ikutaro Shimizu,The Photo On His Book
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叔父、清水幾太郎の著書の一部 One Of Ikutaro Shimizu Books

叔父は学者になってから、日本橋の丸善で舶来のウール生地を使ったスーツを仕立てていました。間近で見る叔父のスーツは、豊かな素材感と仕立て栄えがあり、子供の私が見ても違いがわかりました。

叔父が錦糸町で暮らした少年時代、最も過酷な経験をしたのは関東大震災でした。1923年(大正12年)9月1日、中学3年生だった叔父は二学期の始業式に出席すると早めに家に帰りました。11時58分、ちゃぶ台を囲んで昼食を食べ終えたばかりの一家に、巨大地震が襲います。

My uncle, Ikutaro Shimizu, ordered his suits with foreign-made cloth at Maruzen Nihonbashi. His suits had such a rich feel of texture.

His most severe and hard memory is the Great Kanto Earthquake. 1st day of September, 1923, a giant earthquake attacked Tokyo. He and his family escaped from a difficulty miraculously, but more than 38,000 people died at Yokoamicho Park near their house.

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関東大震災発生時に止まった駅の時計の報道写真 The Clock Of The Station Which Stopped At The Time Of The Great Kanto Earthquake

激震に驚いた母は、台所から横の路地に飛び出そうとしましたが、屋根から瓦が雨のように降ってきたので、再び茶の間に戻ります。すると、床柱が破裂し、天井が落ちてきました。二階建ての家が倒壊したのです。

家族は天井とちゃぶ台の間にできたわずかの隙間に救われると、叔父が天井の板を手で剝ぎながら突破口を作って屋根の上に這い出し、家族をひとりづつ引き上げました。家族は怪我人がいなかったことに安堵しますが、すでにあちこちから火の手が上がっていたので、潰れた家から物を取り出す間もなく、急いで避難しなければなりませんでした。

すると、巡査が見回りに来て「子供は皆、柳島小学校に預けろ」というので、一家は小学5年生だった母と小学3年生だった母の弟を学校に預け、家の裏にあった泥沼を渡ると、亀戸駅の方角へ避難しました。

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柳島小学校 Yanagishima Elementary School

震災で発生した火の手は、長屋の瓦礫の上を四方八方へと広がり、瞬く間に町は猛火に包まれ、母が避難した柳島小学校も全焼します。

火災で最大の犠牲者を出したのは、横網町公園(被服廠跡)でした。炎に追われた町の人々は、広場や空き地を目指します。すると、誰からとなく「被服廠跡へ行くんだ」という声が上がりました。被服廠跡は陸軍の軍服工場の跡地で、2万坪を超える広大な空き地だったからです。間もなく空き地は避難してきた約4万人の人々で身動きが取れない状態になりました。

そこに、公園の四方から猛火が押し寄せ、人々が持ち込んだ家財道具に引火すると、火は折からの強風に煽られて火災旋風、いわば炎の竜巻となって、人々を焼き尽くし、1時間で公園に避難した人々の95%にあたる約3万8,000人が犠牲となりました。

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横網町公園 Yokoamicho Park

亀戸の空き地に避難した叔父たちは、両国方面が炎で真っ赤に染まるのを見ていました。すると誰かが「ああ、紙だ」と言ったので、上空を見上げると、紙吹雪のような物が舞っていました。

やがて、紙吹雪のような物は地上に近づくにつれて大きくなり、けたたましい音で降ってきました。よく見ると家屋に使われていたトタン板で、火災旋風で巻き上げられた物でした。

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両国国技館 Ryogoku Kokugikan Sumo Hall

その晩、叔父たちは東武線の枕木の上で夜を明かしました。同じ場所にいた人の中には、小学校では子供がみんな焼け死んだ、という人もあり、母と母の弟の安否が心配されましたが、確認する手段はありませんでした。

翌朝、叔父たちは警察の指導で千葉県市川の国府台にあった兵舎(現在の千葉商科大学や和洋女子大学の場所)に入ることになりました。祖父は毎朝、国府台の兵舎から徒歩での錦糸町の焼け跡に通い、母と母の弟の行方を捜しました。祖父は夜、兵舎に帰ると、母たちの行方が知れぬことと、預金があった銀行が帳簿の焼失から一円も払ってくれず、火災保険も効かないことを嘆きました。ついに、母の一家は、無一文になったのです。

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旧安田庭園 Kyu-Yasuda Teien Gardens

震災から一週間後、叔父たちは国府台の兵舎から錦糸町の焼け跡に戻ると、家があった場所に、トタン板でバラックを作って、新たな生活を始めました。そして、路上で焼死体を見ると、目をそむけずに、母ではないかと思って丹念に調べました。

やがて一家は、母と母の弟は死んだものと諦め始めた頃、二人はひょっこり、バラックの家に帰ってきました。一家は一瞬、幽霊が出たのかと思って驚きますが、すぐに我に返ると、再会の奇跡を喜んだのです。

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両国橋の上から日本橋方向を見る Ryogoku Bridge

母と母の弟は、避難した柳島小学校の校舎が燃え始めると、誰もがパニック状態になって離散してしまい、家の方角はすでに猛火に包まれていたので路頭に迷いました。

その時母は、かつて友達と、麹町にあった友達の親戚の家に遊びに行ったことを思い出すと、直感で、そこに行こうと決め、幼い弟の手を握ると、西の方角を目指しました。

母たちは、横網町公園に押し寄せる大勢の避難民と逆行して走り出すと、両国駅の高架をくぐり、両国橋を日本橋方向に渡ります。間もなく、横網町公園は火災旋風に襲われました。その後、母たちは神田から九段下に抜け、目指す家にたどり着くと、しばらくお世話になっていたのです。

In the middle of escape from fire, he got separated from his little sister and brother. But few weeks later, they come home safely. They run to the opposite side of the crowd of the panic and arrived at Kojimachi. My mother remembered her friend’s house once she had visited was there and her friend’s family was so kind to take care of them briefly.

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両国駅 Ryogoku Station
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両国駅 Ryogoku Station

母は関東大震災と東京大空襲という未曾有の災害を度々経験したので、子供の半ズボンを選ぶ些細な日常に、平穏な生活が戻った喜びを感じながら、いつか見た下町情緒を思い出していたのかもしれません。

やがて、東京が復興していく過程で下町の堀は埋め立てられ、いつの間にか、隅田川のことを大川と呼ぶ人はいなくなりました。

近ごろ、物作りの現場では、インターネットで集めたイメージサンプルを見ながらデザインする人がいるけれど、私は直接物に触れ、人々の流れを肌で感じる機会を大事にしたいと思っています。

After the Great Kanto Earthquake in 1923 and the Tokyo air raids in 1945, my mother might remember the old downtown atmosphere that she watched sometime while feeling the joy that peaceful life came back to for trifling daily life to choose my short pants.

In the process when Tokyo revives, the moat of the downtown area was filled up, and the people who called Sumida River “Okawa” disappeared.

Today, some people design while watching the image sample collected on the internet, although I like to touch things directly and feel the flow of people.

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IMG_9006 のコピー
母が見立てた半ズボンをはいて My Short Pants Which My Mother Chose
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若い頃の母 My Mother Of The Youth
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隅田川 Sumida River
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隅田川 Sumida River