駄菓子屋のある路地裏

CHEEP SWEETS SHOP IN OLD DAYS

写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

熱帯夜が続く晩、遠くでロケット花火を打ち上げる音が聞こえると、懐かしい気分になった。

むかしは花火を買いにいくとしたら駄菓子屋であった。私が駄菓子屋に通っていたのは1960年代後半で、昭和でいえば40年代初期の頃である。

当時住んでいた街では、駄菓子だけを販売する店は少なく、パン屋や生活雑貨店が駄菓子や玩具も販売する形態が多かった。近所で花火の品揃えが豊富だったのは、菓子類よりも玩具の品揃えを強化していた文房具屋であった。

文房具屋の店先で販売されていた玩具は、季節物の花火のほかに、ビー玉やメンコといった古典玩具、折り紙、ぬり絵、クレヨン、チョークなどの図画工作もの、銀玉鉄砲、昆虫採集セット、スパイ手帖などのアクションもの、テレビ放映で人気となったサンダーバードやウルトラマンなどのプラモデルが主力商品だった。

ビー玉は小指の先を地面に固定して、親指と人差し指で瞬発力をつけて転がす。
公園に行くと、子供たちが地面に穴をあけて作った「店」とよばれるパチンコ台のようなコースが十件ぐらいできていた。仕切り線の外からコースに向かってビー玉をはじき、得点の穴に入れば複数のビー玉が獲得でき、外れれば没収されるゲームであった。最初は仲間と店をめぐってビー玉を打ち込んでいたが、次第に自分たちも店を出すようになった。ところが、にわか仕立ての仕掛けに来客は少なく、魅力的に見せるためには苦労した。

プラモデルは設計図をもとにパーツを組み立てる。最初は四苦八苦したが、次第に完成の雰囲気を自分なりに肉付けして、設計図にはない独自のアレンジを加えていった。戦車はリアルな使用感を出すために、組み立ての途中でパーツを塗装したり、転写シールを貼った上からスプレーでぼかしを入れたりした。完成するまでが楽しかったような気がする。

当時は、自分で遊びを考え、自分の手で遊び道具を作らなければならない時代だった。

玩具を卒業してからは駄菓子屋のことも忘れていたが、機械で遊べる時代になると、知らない間に駄菓子屋は路地裏から消えていた。