名画周遊:下諏訪

Trip To Movie Locations : Shimosuwa, Nagano Prefecture
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

映画ゆかりの地を歩く連載コラム『名画周遊』

今回は、小津安二郎や岡本太郎が日本人の祖先に想いをめぐらせた、長野県の下諏訪を訪ねます。

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八ヶ岳
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諏訪湖

宿場の面影

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万治の石仏

万治の石仏は、下諏訪の顔として観光ポスターに度々登場する。素朴な顔と岩のコントラストは、不思議な魅力がある。

万治3年(1660年)に造られたことが名称の由来だが、当時の記録は少なく、特異な造形の背景は、古代遺跡のように謎めいている。

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万治の石仏

万治の石仏を絶賛して一躍有名にしたのは、岡本太郎である。

岡本太郎は戦前、パリで芸術の基礎を学び、戦後は日本独自の芸術を探求する。1951年、国立博物館で縄文土器に出会うと感銘を受け、後の創作に影響を与えた。縄文土器は、雅やかな日本美とは正反対で、庶民の生命力を表す凄みがあった。

それ以来、岡本太郎は日本全国を行脚しながら、土着の文化を丹念に調べて創作に活かした。そんな岡本太郎が、下諏訪で万治の石仏に出会うと、感動したことは言うまでもない。武骨で泥くさい造形には、飽きない面白さがあった。

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旧中山道

下諏訪は、古くから諏訪大社の門前町として発達する。江戸時代に街道が整備されると、中山道と甲州道中の合流地点となり、宿場が栄えた。今も旧街道沿いには旅館が多く、昔の面影を残している。

小津安二郎は1934年、映画『浮草物語』撮影の下見で諏訪地方を訪ねている。1956年より、諏訪湖から近い蓼科高原に別荘を借りると、諏訪の地酒「ダイヤ菊」の一升瓶を空けながら、映画の脚本を執筆した。

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旧中山道 右に曲がると甲州道と書かれた道標

小津監督は、映画の中で日本人を描きながら、表現は普遍性を意識して、あえて劇中の人間関係やセリフをシンプルにしていた。そのため、常に庶民の暮らしを見つめながら、昔も今も変わらないものを探求した。

諏訪地方に通った理由は語っていないが、広重の浮世絵に見るような街道を歩き、昔の日本人に想いをめぐらせながら、アイデアを練ることが魅力だったのであろう。

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旧甲州道中
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歴史民俗資料館
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本陣 岩波家
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本陣 岩波家

旧街道筋で、江戸時代に下諏訪宿の本陣だった家を訪ねる。玄関の窓口に出てきた老婦人は拝観料を受け取ると、「この家の説明をしますから、そちらにお座り下さい」と言って、歴史を語り始めた。

それによると、本陣を運営していた岩波家は現在28代目で、老婦人は27代目に嫁いだという。

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本陣 岩波家 諸大名を歓迎するために掲げた札

かつて、岩波家は広い屋敷と庭を構え、中山道屈指の本陣と言われた。参勤交代の途中で宿泊する大名はお金を払わないので、問屋場という人馬斡旋業を兼ねて生計を立てた。

やがて、明治維新を迎えると幕府は崩壊し、本陣も役目を終えた。全国各地で城や本陣が取り壊される中、岩波家は屋敷や庭を残した。それでも、家族の中には新しい時代に対応すべきと主張する者もあり、明治の末に分家して、敷地の一部を譲った。

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本陣 岩波家

分家は敷地に旅館を建て、鉄道の開通で増える観光客に対応しながら一流旅館に育てた。だが、近年は宿泊客の減少から負債を抱え、旅館は他の経営者に渡った。

一方、岩波家は諏訪湖畔で「SUWAガラスの里」というアミューズメント施設を運営しながら、本陣の跡地を守り、一般に公開しながら現在に至る。

本陣の栄枯盛衰を語ってくれた老婦人に「こちらの家に来られて、何年ですか」とたずねると「40年」と答えられた。すると、物陰から出てきた家族の女性が「おばあちゃん、違うでしょう、50年でしょう」と訂正され、老婦人は「そうかのう」と言って、照れ笑いを浮かべた。

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本陣 岩波家
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本陣 岩波家
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本陣 岩波家
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本陣 岩波家

湖畔の野趣

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食祭館

下諏訪の名物料理は、蕎麦や山菜のみならず、湖のワカサギやウナギ、牧場の豚肉や馬肉など、蛋白源も豊富だ。

ウナギは蒸しを入れずに皮をパリッと仕上げる関西風のお店が多く、かつて中山道の要所として、東西文化が交流した名残りを感じる。

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食祭館 馬刺し
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うなぎ 林家
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うなぎ 林家 うな重
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そば処 萩月庵千ひろ そばの実の揚げ物と地酒「御湖鶴」
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そば処 萩月庵千ひろ もり蕎麦

7年目の再会

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諏訪大社下社 秋宮 境内から下諏訪の街を望む

諏訪大社は、全国に一万余ある諏訪神社の総本山で、諏訪湖を中心にした四宮からなり、創建は古代にさかのぼる。このうち、下諏訪の街には秋宮と春宮があり、街の成り立ちの中心になっている。

諏訪大社最大の神事は「御柱祭(おんばしらさい)」である。7年目ごとの寅と申の年に社殿の四隅に祀られているモミの大木(高さ約17m、直径約1m、重さ約10トン)を建て替え、お宮では宝殿を建て替える行事だ。

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諏訪大社下社 秋宮 社殿の四隅に祀られた御柱のうちの1本。建て替え前のもの

地元の人々は山から切り出された大木に縄を巻きつけ、地面を引きずりながら神殿まで運ぶ。道中に坂や川があっても、大木は人力のみで突き進み、豪快な迫力は祭の見所になっている。

諏訪大社は古来より水や風、狩猟の神様として信仰され、それらを祈願するために大木を立てたことが御柱の起源と推定されている。御柱祭の歴史は、平安時代の桓武天皇(在位781年〜806年)の時代に最古の記録が見られるが、記録が残されていない時代を含めると、起源は古代にさかのぼると言われている。

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諏訪大社下社 秋宮

日本人の根源的な精神を垣間見る御柱際は芸術家を惹きつけ、小津監督は蓼科の別荘に通いながら、1956年の申年と1962年の寅年に御柱際を見物したことを日記に残している。

岡本太郎は1974年の寅年に初めて御柱祭を見物した帰り、万治の石仏と出会っている。その後も何度か御柱際を見物するために下諏訪を訪れ、御柱に乗った写真を残している。

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諏訪大社下社 秋宮
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諏訪大社下社 秋宮 お神酒(おみき)として奉納された諏訪の銘酒
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諏訪大社下社 秋宮
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諏訪大社下社 秋宮
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諏訪大社下社 春宮

今年は申年なので、御柱際が行われる年である。4月のはじめに下諏訪を訪ねると、街は御柱際を目前に控え、至る所に神様をお迎えする飾りが見られた。

資料館で働くボランディアの男性に御柱際のことをきくと「そりゃ、地元は盛り上がりますよ。盆暮れと違って7年目のお祭りでしょう。それでずっと育ってきたから、血が騒ぐ。東京に働きに出た若者たちも、この時ばかりは帰って来る。この辺の会社は皆休みだよ」と語られた。

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諏訪大社下社 春宮

夕食を終えて宿に戻る途中、地元の青年団の男女が、駐車場で祭の余興の練習をしていた。皆それぞれ脇にラインの入った体育ジャージを着ている。7年目に再会した男女にしては質素な格好で、どこか照れくさそうな表情が印象に残った。

祭は、本番の活気も良いけれど、祭の準備の高揚感も良い。神様のお導きを信じる人々が、伝統の祭りを支えている。

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諏訪大社下社 春宮 御柱
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下諏訪の街並み
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下諏訪の街並み
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下諏訪の街並み
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下諏訪の街並み
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下諏訪の街並み
バージョン 2
下諏訪の街並み
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下諏訪の街並み
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下諏訪の街並み
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下諏訪の街並み
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万治の石仏
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万治の石仏