名画周遊:佐原

TRIP TO MOVIE LOCATIONS
SAWARA,CHIBA PREFECTURE

写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

「これから、佐原見物ってとこだ」

保護観察官は、役所広司演じる仮出所の男を、船大工に紹介した。すると、船大工は、

「サハラ砂漠っていうぐらいで、見る所なんか、ありゃしねーぜ」と答えた。

映画『うなぎ』(今村昌平監督1997年・平成9年作)の一場面で、ロケはストーリーと同じく、千葉県の佐原でおこなわれた。

佐原は古くから水運の要所として栄え、豊富な水系を利用した稲作は関東屈指の規模を誇る。船大工の発言とは反対に、古い町なみや船めぐりなど、観光客にとっては、見どころ満載なのだ。

うなき長谷川 与田浦店 HASEGAWA UNAGI 

利根川周辺の水郷地区で車を走らせていると、次々とうなぎ屋が現れる。

都心の老舗うなぎ屋ほど張り込んだ外観ではなく、民家のようだが、沼や水田に囲まれた姿は、いかにも産地のど真ん中という風情で、食欲をそそる。

「長谷川」は、佐原の町中で江戸時代に創業した老舗で、水郷地区にある与田浦店は、船めぐりの観光客や、釣り人が利用する支店にあたる。

うなぎは、ふっくらとやわらかく、タレは甘さ控えめのあっさり目で、江戸前の味付けを伝承している。

佐原駅周辺 SAWARA STATION

佐原も明治時代になると鉄道が伸び、戦後は駅前にデパートやスーパーができて、商圏はかつて水運で栄えた川沿いから駅前に移る。

しかし、車の往来など考えもしなかった江戸時代の町なみは、一方通行の狭く曲がりくねった道が多く、便利さと快適さを求める人々は、大型ロードサイド店が集まる広い幹線道路沿いに移りつつある。

山田うなぎ店 YAMADA UNAGI

閑散とした町中を歩いていると、どこからともなく、うなぎの匂いが漂ってくる。気のせいかと思ったら、川沿い近くの旧商業地区で、行列が絶えず、もくもくと煙をたててうなぎを焼く店がある。長谷川と同じく、江戸時代に創業した「山田」である。

うなぎは焦げ目をしっかりつけ、香ばしさと歯ごたえがあり、タレはこってりした甘辛で、千葉県北部特有の濃厚な味付けを伝承する。

香取街道沿い KATORI HIGHAWAY

香取街道沿いは、江戸の頃より残る商家に、近代のレトロビルが混在して、建物博物史を見るようだ。中味は、昔から続く商店もあれば、貸店舗を運営しながら建物を維持するケースも見られる。

東薫酒造 SAKE FACTORY TOKUN

昔は酒や調味料は地産地消していたので、地域には必ず造り酒屋があった。香取街道沿いにある江戸時代に創業した東薫酒造は、そんな時代の雰囲気を今に伝えている。

正上醤油 SHOJO SOY SAUCE STORE

小野川沿いにある正上醤油が創業した1800年(寛政12年)は、地元の商人、伊能忠敬が隠居して、全国測量の旅に出た年にあたる。

その後、近代から現代にかけ、地図検索が飛躍的に進歩しても、正上醤油の製法は創業当時のままで、無添加の天然醸造を継承している。

小皿に注いだ生の醤油は、せんべいでも焼いているかのごとく、あたり一面に豊かな香りを放つ。本来の醤油とは、こんなに香りが強いものだったのか、と驚く。

小野川沿い ONOGAWA RIVER

水運が主流だった頃の商業地区の面影を残す小野川沿いには、江戸や明治の頃に建てられた建物が多く、大正は新参者となる。

時代劇のロケに使われることも多く、物語の背景は必ずしも佐原ではなく、全国各地の昔町として撮影されている。

商家のデザインは大同小異で、まわりと景観を統一しながら、細部で個性を表現したことがしのばれ、窓枠の曲線などにこだわりが見られる。

橋や商家に見られるコイやカメの彫刻は、水害を防ぐ守護神の意味があるそうだ。水の中に生きるものを手仕事の造形で祀ることで、人間との共生を神に伝えようとした精神は、アートの根元を見るようだ。

木の下旅館 KINOSHITA RYOKAN

小野川沿いにある木の下旅館は、江戸の頃から佐原で船宿を営んでいた一家が、明治時代に建てた宿である。昔から部屋数は4部屋で、夫婦でサービスできる規模を維持している。

食事は夫婦の手作りで、夕食は気取りが無く、刺身や煮物、冷奴など、定番惣菜中心。旅行客というより、下宿人になった気分だ。

旅館は町内のうなぎ屋と同じく、地場の上質な米や食材、醤油、みりんなどを使っているので、定番惣菜ながら、豊かな香りと味わいに満ちている。

旅館の冷酒も町内の地酒、東薫酒造のもの。甘さと辛さが入れかわり現れ、飽きがこない、深みのある味わいだ。

食堂で同席した80歳代の婦人グループ4人連れは、「煮物は懐かしい味付けだね」「お米がおいしいとうれしいね」と語るうちに、いつの間にか終戦当時の話題になる。

「あの頃は物がなくてね」「真夏の暑い日、天皇陛下から大事な話があるからと座敷に集められ、一家で正座をしてラジオを聞いて、お父さんとお母さんが泣きだしたから、日本が負けたと思った」

2階の廊下の柱に備え付けてある手榴弾消火器の由来を主人にうかがった。それによると、消火器は爆発物ではなく、落下すると器がわれて、中から溶液が出てくる単純な仕掛けで、昔は小学校でもこの消火器を使った消火訓練があった。昭和28年(1953年)頃の話だそうだ。

当時は旅館にこの消火器を設置することが義務付けられていた。時代とともに消火器を刷新したが、古いものもそのまま残しているのだという。消火器の箱には昭和24年(1949年)製と表記されていた。

朝食のひじきの煮物はあっさりした味付けで、たっぷり入った煮汁もおいしく飲める。

ふぞろいの玉子焼きは、生地の剛軟と甘さの濃淡が混在して厨房の味というより台所の味である。運動会や花見の弁当に入っていた手作りの玉子焼きを思い出す。

朝から旨味のある定番惣菜づくしで、つい、ご飯を食べすぎてしまう。主人は時代劇のロケで来館した芸能人のことを自慢するが、私にとっては素朴な料理のほうが魅力的だった。

地元の人々は生まれながら豊かな食材に囲まれて育ったので、映画『うなぎ』の船大工のように、「見る所なんか、ありゃしねーぜ」と思うのかもしれない。

婦人グループ4人連れは、朝食が済んでも喋り続けていた。「お互い80を超えても、女学校時代のようにちゃん付けで呼び合えるっていいよね」「昨日来た○○ちゃん、旦那の面倒見なきゃいけないから、日帰りで帰っちゃったね」「うん。別れる時、泣いてたよ」「そうね、お互いもう会えないかもしれないからね」