名画周遊:南千住

TRIP TO MOVIE LOCATIONS
MINAMI SENJYU.TOKYO

写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

JR貨物隅田川駅 JR FREIGHT SUMIDAGAWA STATION

砂町の町工場で働く男が、飲み屋の前で若い女に声をかけられる。

女「このへんに、泊まれる家はないでしょうか…」
男「おいお前、若いのに宿無しか」
女「あたし昨日まで千住の製糸工場にいたんですけど…」
男「クビか。親兄弟はいないのか」
男はしかたなく、飲み屋の女将に女の面倒を見てもらう。

小津安二郎監督作品『出来ごころ』(1933年・昭和8年作)の冒頭場面で、「千住の製糸工場」というセリフに当時の時代背景が感じられる。

当時の千住あたりは、隅田川の水系と安価な土地の立地から大きな工場が多く、東京を代表する工業地帯であった。女工の中には貧しい家の口減らしのために売られ、身寄りのない者もいた。

当時の工業地帯は、高度成長時代が終わると、オイルショックや公害問題、物価の上昇から移転するか廃業して、跡地はマンションや商業施設となり、ほとんど痕跡をとどめていない。

今回はその中でも、比較的に産業遺構が残されている南千住を訪ね、近代化の面影をめぐった。

南千住駅に隣接する貨物線の隅田川駅は1896年(明治29年)の開業。川沿いの一角は売却して、跡地には高層マンションが立ち並ぶが、往時の規模感が残っていて、貨物列車も頻繁に往来している。近隣のショッピングセンターは紡績工場の跡地だそうだ。駅前一帯が広大な工業地帯であったことが感じられる。

荒川総合スポーツセンター ARAKAWA SOGO SPORTS CENTER

南千住駅から徒歩10分程の場所にある荒川総合スポーツセンターは、かつてプロ野球の東京スタジアムのあった跡地で、現在は体育館や軟式野球場、警察署、住宅棟、スーパーマーケットなどが建つ。

東京スタジアムは1962年(昭和37年)から1972年(昭和47年)までの10年間営業して、オーナー企業の映画会社大映が映画産業の斜陽で倒産したことにより閉場した。

東京スタジアムの敷地の前身は千住製絨所という、我が国初の官営毛織物工場であった。輸入に依存していた軍服用服地の国産化を目指して1879年(明治12年)に創業した。

創業当時の千住製絨所を描いた絵では、田園地帯に突如近代工場が建った様子がわかる。

明治時代の千住製絨所の写真。当時は隅田川から用水路をひいていた。
昭和初期の千住製絨所の正面玄関付近の写真。

現在、千住製絨所跡に残る煉瓦塀。この煉瓦塀は、製絨所が閉鎖された後に、一部が東京球場の塀として、継続して使われ、現在は産業遺産としてスーパーマーケットの駐輪場に数メートルほど保存されている。不揃いな仕上がりは、いかにも初期の国産煉瓦の風情である。

国産毛織物工業発祥の地を示す記念碑には毛織物の象徴羊の彫刻も見られる。千住製絨所は民間に払い下げられた後、1960年代初期に業績悪化から操業を停止する。跡地にできた東京スタジアムはピーク時には年間70万人の観客動員があったが、現在の町に喧騒の面影はなく、静かな住宅地が広がる。

うなぎ料理店「尾花」 UNAGI RESTAURANT “OBANA”

南千住の住宅地の中に佇む「尾花」は、明治時代に創業して、昭和初期からこの地で営業を続けるうなぎ料理屋の老舗である。

小津安二郎監督は晩年、細く長くと願をかける年越しそばではなく、太く長くと願をかける年越しうなぎを食べる会を企画して、毎年暮れに鎌倉から映画関係社を引き連れて、尾花で忘年会を開催していた。

鰻巻きや鰻重は素材の良さと熟練した火加減の技で、味もさることながら、きれいな見た目と、じんわりと暖かくて、まろやかな食感が際立つ。

値段は決して安くないのだが、広い座敷は満席で、外には行列が絶えない。量を追い求めた工業や娯楽施設が次々と衰退するなか、小さいながらも質を極めるうなぎ屋は繁昌している。

千住大橋 SENJYU OHASHI BRIDGE

千住大橋は川幅のせまい隅田川上流にあり、下流の長い橋のような迫力はないが、歴史がたくさん詰まっている。

徳川家康が江戸に着任して間もない1594年に隅田川初の橋として架橋された。

松尾芭蕉は1689年(元禄2年)の春、俳句集『奥の細道』創作の旅に出るため、深川の家から船で隅田川をのぼり、日光街道のある千住大橋の下で船から陸に上がる。この時、見送りに来た友人たちとの惜別の想いから、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」と詠んだ。

昔は人生50年と考えられ、晩年の老いた身の長旅では、客死することも考えられたが、それでも創作のために旅に出たことは俳句のたしなみがなくても感銘を受ける。

永井荷風は1934年(昭和9年)2月の日記に千住大橋の上から南千住を眺望した様子を「北斎が描きし三十六景の中にも千住の図あれど、余は大橋の上より富士を見しは始めてなれば、珍しき心地して手帳取出し橋の灯をたよりに見たる処を描きぬ」と記している。

今はマンションがたちならび、橋の上からは富士山どころかスポーツセンターの照明灯も見えないが、永井荷風が渡った1927年(昭和2年)製の鉄橋は、東京大空襲の焼失をまぬがれ、現在している。

今あらためて聞く「千住の製糸工場」のセリフには、近代化と高度成長に尽力して現代の基盤を築いた人たちの苦労がにじむ。